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市長の手控え帖 No.51「人生の余熱」

市長の手控え帖

流用とは何か。ある特別な事情があり、目的外のところに金やものを充てることをいう。今回の復興予算の流用には、これを言い立てる理由はない。ある種の盗用ではないか。そもそもこの金は復興を迅速に進めるため、国民の懐を痛めて調達したものであり、被災地の復興事業に用いるべきは当然。しかしどういうわけか、税務署の改修や鉱山の買収に使われている。

これには二つの問題があった。ひとつは、復興基本法に、復興のほかに「活力ある日本再生」にも使用できるとしたこと。これは解釈次第で、何にでも使える打ち出の小槌になる。堂々とぬけ道が用意されていた。もうひとつは、風が吹けば桶屋がもうかる式の、乱脈な使い方を戒める力が働かなかったこと。役人のモラルが落ち、行政をチェックする政治の力が悲しいほど弱ってきている。

私たちは、大惨事のあった葉ノ木平から、田町・4号線を結ぶ道路の拡幅を復興予算で要求した。国会議員にも、復興庁の事務次官にも実情を訴えた。しかし通らなかった。命の道がダメで、およそ復興に関係のない調査捕鯨がよしでは腹の虫が治まらない。これは被災地への背信行為としか映らない。だから、石原慎太郎のように芥子のきいた人が脚光を浴びる。

それにしても石原慎太郎は終いまではねる人だ。仕上げと思われていた都知事を投げ出し、齢80にして国政に戻るという。政界が大きく動く状況をとらえ、第3の勢力を糾合し主導権を握る。そこにあるのは、思い定めていたトップリーダーへの見果てぬ夢か。若くして芥川賞に輝き時代の寵児になる。垢抜けた湘南ボーイと刺激的な言葉。並はずれたエネルギーは、文学におさまらず政治の道へと転じた。裕次郎という最強の支持者を弟に持つ。内には、我こそはという強烈なエリート意識と、戦後政治の本流に対する疑問が渦巻いていた。

しかし、現実には田中角栄とこれに連なる勢力の前に、傍役に甘んじてきた。憲法・国防・伝統といった大きい政治を掲げる石原は、成長・分配・補助金という生活に密着した田中的政治とは遠い。また、彼には、宰相の器も気概もなく、これを目標としてこなかった者が、政治力学で総理に就くのが我慢できない。国会に三行半をつきつけた。しかしヤケになった訳ではない。もう一度飛び立つための場所を捜したのだと思う。並の大臣など遥かに及ばない影響力を持つ都知事の座で存在感を示し、じっと政治の流れを見ていた。そして今が好機と判断。

石原の考えに違和感を覚えるところはある。危険な臭いもする。しかし、この心意気はどうだろうか。年を重ねたら、余計なことは言わない、丸くなるのが「賢い」身の処し方とされる。よく、若い人のサポートに徹するという。ときにこれは、若い世代に難事を押しつける逃げ口上にも聞える。乱暴で押しつけるような言動には眉をひそめるが、本質的なところで石原は逃げない、卑怯ではないと見る。

今回の行動をドンキホーテと評する人もいる。できそうもないことに挑む姿が、滑稽で狂気のように映るのかもしれない。しかし、大事は狂うほどの熱がなければ成し遂げられない。こういう時代には「あるがままの自分に折り合いをつけるのではなく、あるべき姿のために戦う」ドンキホーテ的精神が求められる。老骨の騎士は、愛馬ロシュナンテや従者サンチョ・パンサのような強い味方を得て、一目散に走れるか。最後の戦いが始まった。

首相が異例の形で解散のカードを切った。正直と誠実で売る自分が、卑怯者・ウソつき呼ばわりされたのを嫌がったのか。身内から引きずり降ろされる前に、不信任案が通る前に先手を打ったのか。解散を口にした瞬間の顔は紅潮していた。はじめて、政治家野田の底から湧きおこる気合いをみた。

今の混迷は政策のまずさと政治を担う者の力量不足にあり、与党も野党も同等の責任を負っている。分配から負担の時代を迎えた。私たちは、相応の痛みを負う気持ちは持っている。それには、なにより政治への信頼が前提となる。同時に政治は結果で評価される。「いいことをやっているのに何故うまくいかない」と嘆いても仕方ない。近頃の国会議員は、目から鼻へ抜ける秀才型が多い。知見は十分備えているが実行力に欠ける。

これから歓迎されない制度をつくり、重い扉をあける大仕事が待っている。何やら面白そう、何かをやってくれそうな人に国政に出てきてもらいたい。皆で重い荷物を背負い長い坂を登っていく覚悟を持てば、必ず明るい未来が待っている。

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