市長の手控え帖 No.89 「無用の旅を楽しむ」

市長の手控え帖

春がきた。桜や桃の花が咲き、野山が柔らかな若草色に染まる。暖かな風とともに旅心が出る。"片雲の風に誘われて 漂泊の思いやまず"。土地の風情や人情を俳句に詠んだ奥の細道は優れた紀行文だ。大正から昭和に、内田百間という人がいた。夏目漱石のサロンに連なる小説家、随筆家。特に「阿房列車」という鉄道紀行文で知られる。偏屈で頑固で皮肉屋だが、漱石のユーモアを最も引き継いでいる。

この先生、ともかく鉄道が大好き。汽車に乗ってさえいればご機嫌。旅は仕事か観光かは別として、用事があるから行くのが普通。しかし先生には目的がない。無用の用の旅。旅に出るからといって普段の生活を変えることは毛頭ない。いつも昼近くまで寝ているので列車は午後。ステッキ以外の荷物は持たない。名所には関心がない。温泉にも入らない。ひたすら汽車に乗り、酒を飲み、車窓の景色を眺める。酔眼ながら曇りのない目で、人情や世相を独特の視点でとらえる。

先生は一人旅ができそうもない。いい連れ合いができた。国鉄職員で、鉄道雑誌の編集者。しかも先生を慕っている。本の中では、ヒマラヤ山系君と呼ばれ、全国阿房列車の旅のお供をする。彼なくしては、名紀行文は世に出なかった。ところが、「丸でどぶ鼠,朦朧とした,泥棒のような顔」とさんざんだ。でも山系君は余計なことを言わない。主人の攻撃にまともに反応しない。微妙にずれる会話と、ちぐはぐな間合いを先生は気にいっている。

何の目的もなく汽車に乗ることを、おかしげに阿房列車と称しているが、本人はそう思っていない。「用事がなければどこへも行ってはいけないというわけではない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う」。なんともいい書き出し。昭和25年某月某日東京発12時半、特別急行列車はと号は、先生のお気に入り。日曜の昼前で混んでいる。「どんな用件でこうまで混雑するのか解らないが、どうせ用事なんかないにきまっていると、にがにがしく思った」。なんのことはない、用がないのは当の本人だ。

発車が近いのに切符は持っていない。未来を拘束されるから、前もって買わないのが流儀。といっても気になる。「売り切れでも、乗っている人を降ろしても構わないから、是非今日、そう思った時間にたちたい」。無理なことをいうが、そのわがままに笑いが出る。駅員とかけあい、切符を入手する山系君の苦労がしのばれる。

先生は一等車がとれたとご満悦。出発まで時間があるから精養軒で飲もう。近くでビールを飲んでいる3人を、昼日中から猿のような顔をして、行儀が悪いという。自分のことは棚にあげている。

2人とも酒が好き。そこは実に相性がいい。酒がきれたのか、名古屋の手前で食堂車へ移る。曖昧な頭で、曖昧な話をしているうち大阪へ着く。宿ですぐに休むのかと思いきや、かなりの銚子を空け、怪気炎をあげる。日が高くなって起き出す。昨日と同じ汽車で、同じ時刻に大阪を発車した。同じ乗務員にもうお帰りですか、お忙しいご旅行でと声をかけられた。

上野発12時50分の準急で仙台へ。夕暮れ前福島に着き、駅前の辰巳屋に宿をとる。さて楽しみの夕食。女中が酌をする。「会津の一番いいお酒で」「成る程、何というお酒だい」。女中「いねごころ」「稲の心で、稲心か」。女中「違いますよ よね心です」「ははあ、よね心 つまり、よねはお米だね」。女中「違います よめごころ」「そうか、嫁心か」。女中「いいえ、いめごころ」「はてな」…。山系君が「ゆめ心なんでしょう」と収める。福島訛りの女中に閉口する先生との、とんちんかんなやりとりに吹き出してしまう。

人は単調な暮らし、片のつかない仕事、うまくいかない人間関係の中で日々を過ごす。行方定めぬ草枕、ひと時の出家か遁世を夢見て旅に出る。現実は、切符・日程・宿探し、お土産やらで気が重い。せっかくだからあれも見たい、これも見てこよう。結局、気ぜわしく動き回り、いつもの"有用"の旅になる。ああくたびれた、やはり家がいい。概ね俗人はこうだ。

先生は常識にとらわれない。世間から見たら変人。だからこそ、本物の旅の自由と純粋さを味わえる。旅の真の楽しみは、無用の用にあるのかもしれない。寝つかれない夜、枕もとの「阿房列車」をめくる。そのうち、線路の継ぎ目を刻むリズミカルな音に誘われるように眠りにつく。

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