市長の手控え帖 No.101 「郷愁の作曲家」

市長の手控え帖2

 

 東京でタクシーに乗ると、栃木ですかと聞かれる。努めて標準語で話しているつもりでも、やはり訛っているのかと苦笑する。温かい栃木訛りの作曲家がいた。船村徹。この2月に世を去った。那須に近い塩谷町に生まれ育つ。音楽で身を立てようと上京し、専門学校に入る。だが、一人暮らしの不安に加え、訛りに強いコンプレックスを持った。

 ある時学校で、堂々と訛る男に話しかけられた。身体に電流が走る。茨城の笠間生まれ。後にコンビを組む、作詞家高野公男との出会いだった。同じ訛りは、二人を強く結びつけた。遠慮せず、お国言葉で話せる解放感。貧乏にあえぎつつも望みは大きい。

 高野はいう「俺は茨城弁で詞を書く、お前は栃木弁で曲をつけろ、古賀政男も西條八十もぬける」。歌の女神が微笑む。春日八郎に曲を提供する機会を得た。会津出身の春日の美声は、どこか哀愁を帯びる。世は復興に向かい、多くの人が単身、東京で働く。日が落ち、疲れた身に酒がしみる。故郷を思い、船村の歌に聞き入る。「別れの一本杉」は大ヒットした。

 地方から東京への大移動が始まろうとしていた。故郷から切り離される不安と望郷の念。郷愁演歌の出番だ。しかし、悲運が襲う。高野が結核で死の床につく。

船村は悲嘆にくれる。酒びたりの日々。高野の魂に背中を押され、立ち直る。「東京だよおっ母さん、おんなの宿、王将、矢切の渡し、みだれ髪」。歌謡曲界に揺るぎない地位を築く。

 だが、心には、すきま風が吹いていた。盟友の無念さを分かっているのか。本当に民衆の心を分かっているのか。経済も文化も東京へなだれをうつ。すべて東京の視点で見る。このままでは感覚が鈍る。演歌は、日本の風土から生まれる民衆のうめき。我がものにするには、裸になってその懐に飛びこむしかない。

 “演歌巡礼”の旅に出る。錦江湾から下北半島へ。土地土地の風に身をさらし、五感を研ぎ澄ます。オホーツクの海鳴りを聞きながら、酒をくみ交わす。そこから「アイヤーアイヤー 留萌 滝川 稚内」、切なげに声をふり絞る「風雪ながれ旅」が生まれる。

 生きることは傷つけ、傷つけられること。誰かが喜べば、誰かが悲しむ。自分は懸命に生き、世間の評価を得てきた。だが、その陰で何人泣いたのだろう。船村は姿なき罪の意識を持っていた。その思いが巡礼へとかり立てた。
 
 船村徹は、演歌界で初めて文化勲章に輝いた。古賀政男、服部良一、吉田正、遠藤実。名だたる先輩の国民栄誉賞は、死後だった。遠藤は文化功労者に選ばれたが、文化勲章への道は遠かった。私たちは、人生の折々に、どれほど歌謡曲に慰められ、励まされたことだろう。

 日本には邦楽を洋楽より下にみる傾向がある。中でも、町の片隅で、黙々と生きる人々の哀感をうたう歌謡曲を、蔑む風潮がある。船村は、生涯これに異議申し立てをした。「フランスでは、オペラの観客とシャンソンの聴衆は同じ、音楽に上下はない」。歌は心でうたうもの。どんなにテクニックが優れていても、心からのつぶやきや叫びでなければ、聴く者を感動させることはできない。

 それは演歌でも、シャンソンでもジャズでも同じ。民衆の歌とは、どこの国でも、土地の個性とそこに生きる人の喜怒哀楽を表現するもの。いい曲は世界に通ずる。船村は、自分のうたを情歌といい、万人に訴える曲づくりをした。

 船村はユーモアとペーソスの人だった。時代に流されず、人の心の奥底をみつめていた。背広や標準語になじめず、寄辺ない人の寂しさを、優しく包み込んだ。「歌に思い出が寄り添い、思い出に歌が語りかける。そうして、歳月は静かに流れていく」。船村は人生の伴走歌を紡いだ。

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