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市長の手控え帖 No.107「国を開いた勇者たち」

市長の手控え帖2

 

江戸時代は、いわゆる「鎖国」をとっていた。といっても、完全に国を閉ざしていない。外国と接する場所を限定し、幕府が直接的・間接的に管理する体制を「鎖国」と表現したに過ぎない。
日本には対外上、4つの窓口があった。長崎ではオランダと中国。対馬は朝鮮、薩摩は琉球、松前はアイヌ。朝鮮と琉球は、正式な国交を持つ「通信国」。他は私的な貿易関係だった。オランダは西洋の窓として、日本に大きな影響を及ぼした。出島に置かれた商館は、「オランダ東インド会社」の日本支店。
オランダ語は、長崎の「通詞」が担った。通詞とは、長崎奉行が現地で採用した役人。30戸程度の世襲制で、幼い頃から蘭語を学び、相当の語学力を持っていた。通訳や貿易業務のほか、オランダ船がもたらす海外情報の翻訳も行った。
幕府は貿易許可の条件として、スペイン・ポルトガル等、カトリックの動きを報告するよう義務付けた。『オランダ風説書』とよばれる情報誌は、世界を知る上で、重要な回路だった。幕府の指導者は、風説書から相当の知識を得ていた。
18世紀初め。紀州から将軍家を継いだ吉宗は、オランダに深い関心を持つ。洋書輸入禁止令を緩和し、青木昆陽らに蘭語修得を命ずる。毎年参府する商館長に、お国の政治体制や地理、軍事の御下問をする。馬好きな吉宗は、日本馬の体格改良のため、大型のアラビア馬の導入も図った。「暴れん坊将軍」の馬が大きいのは、そのせいかもしれない。
田沼時代には、「蘭学・洋学」の気運が高まる。長崎で蘭語を学んだ前野良沢は、人体の解剖書『ターヘル・アナトミア』の翻訳に取り組み、『解体新書』を完成させた。風変わりな平賀源内も、蘭語を駆使し、エレキテルの実験など、天賦の才を発揮する。次第にキリスト教への恐怖が薄れ、西洋近代への畏敬が高まる。
定信が登場する。定信は、海外開放への流れに逆らったイメージがある。洋学を禁じ、在野の海防論を抑え込んだりと。体制の守護者の目に、西洋への接近は、足元を崩す懸念があると映る。長崎貿易を縮小し、幕府通知の誤訳を理由に通詞を処分するなど、統制を強めた。
その一方で、幅広く洋書を収集し、翻訳局の拡充も図った。また、元長崎通詞の石井庄助を白河藩で召し抱え、洋学の基礎となった蘭語辞書『ハルマ和解』を作成させた。定信も世界情勢に並々ならぬ関心を示し、通詞の技量を認めていた。
世紀末、ロシアが北から揺さぶる。ラクスマンが漂流民、大黒屋光太夫を伴い根室へ。12年後、国書を携えてレザノフが長崎へ。「鎖国は祖法」と追い返す幕府。怒る軍船は、蝦夷地を攻撃。
アメリカの捕鯨船は、水と食料を求め近づく。海の覇者イギリスは、強引に長崎に入港する。幕府は異国船打払令を発するが、時代錯誤。アヘン戦争で清がイギリスに屈服し、香港を割譲した。もはや蘭語だけでは通用しない。通詞は英仏語に猛然と力を入れる。
黒船がきた。幕府は、思いのほか冷静に対応した。来襲を想定していたこともあるが、通詞の力量もあった。ひとりの通詞が旗艦に近づき、"I can speak Dutch!"と呼びかける。即座に理解した艦隊の通訳と、オランダ語で話し始める。ペリーは『日本遠征記』で、堀達之助の語学力を高く評価している。
翌年、日米和親条約の交渉が始まる。日本の主席通詞は森山栄之助。森山は、両代表が対峙する場でも、笑顔さえ見せ余裕の振る舞い。ペリーは見事な英語に驚き、条約の成立を確信したという。
条約交渉は国益をかけた真剣勝負であり、一字一句に身を削る過酷な仕事。彼らは歴史の表舞台には出てこない。だが、迫りくる西洋列強に言語で渡りあい、近代の扉を開いた陰の功労者だった。 

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