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市長の手控え帖 No.111「情を伝える人形浄瑠璃」

市長の手控え帳

 

先頃、コミネスで淡路人形浄瑠璃が行われた。金売り吉次が、牛若丸の奥州下りを助ける鞍馬山の段。牛若丸と弁慶が出会い、主従を契る五条橋の段。舞台右手に、独特の節回しで語る太夫。隣に、重々しい音を響かす、太棹三味線の弾き手。正面に、三人の遣い手により、いきいきとした表情や仕草をする人形。分かりやすくとても面白かった。
人形浄瑠璃は、耳で聞く語り音楽と、視覚に訴える人形とが偶然結びついた芸能。浄瑠璃とは仏教用語で美しい玉のこと。薬師如来の申し子とされた美しい姫様と、平泉に向かう牛若丸の恋物語が大流行。いつしか、抑揚をつけて語られる物語を浄瑠璃と呼ぶようになった。
浄瑠璃には多くの流派が生まれたが、17世紀後半、大阪で竹本義太夫が「義太夫節」を始めた。近松門左衛門と組んだ『曽根崎心中』が大人気を博したこともあり、浄瑠璃といえば義太夫を指すようになる。その後衰退するが、19世紀に入り、淡路島出身の興行師、植村文楽軒の優れた才覚で盛り返した。以後、文楽が人形浄瑠璃の代名詞となる。
浄瑠璃は語りの義太夫と三味線で、いかにドラマチックに、人間の喜怒哀楽を表現するかが見せどころ。義太夫は一人で何人ものセリフを言う。誰が誰に、何を、どのような気持ちで言っているのか。また、その心理や情景までも描写し、観客が目をつむっていても分かるように語れという。
何年か前、人間国宝、竹本住大夫の引退公演があった。当時89歳。脳梗塞を患いながら、超人的努力で復帰した偉大な太夫。「ベベン、ベン」。重厚な三味の音に、会場は静まりかえる。ほどなく、鍛えあげた野太い声で語りが始まった。
この日の演目は「菅原伝授手習鑑・桜丸切腹の段」。菅原道真失脚の原因を作ってしまい、切腹して詫びる忠臣。老父と嫁が「泣くなや~」「アイ~」「泣くなや~」「アイ~」と掛け合う。少しずつ語調を変え、苦悶の表情で身体の奥から声を絞り出す。哀切の情に心がえぐられる。劇場全体がしのび泣いている。
義太夫の本質は「情」。愛情、恋情、非情、無情、薄情…。情を語るには、人を知り、世間に通じること。情を身体に宿せるようになることが必要。要は人間力が如実に表れる芸だ。人間力を磨くために、名人ですら「もう一生」欲しいという。情を語る義太夫節とは、何と奥の深い芸だろうか。
淡路島の人形芝居の歴史は、大阪より古い。淡路島は兵庫県に属しているが、江戸時代は徳島藩だった。藍や塩等の特産物の生産販売で、大きな富を得た商人や富農は、芸能に力を入れた。藩主蜂須賀家が、庶民芸能を保護したこともあり、「阿波踊り」や「浄瑠璃」が広まった。江戸から明治にかけ、20もの座があり、民衆の生活に溶け込んでいた。
明治初め、淡路で騒動が起きた。戊辰の戦いで、佐幕か朝廷かで藩が割れた。筆頭家老で淡路を治める稲田家は、朝廷側につく。態度を決めかねる本藩と溝ができる。倒幕に功績のあった稲田家は、淡路独立の動きに出る。怒った藩兵は淡路を襲い、多くの死傷者が出た。新政府は首謀者を断罪。日本最後の切腹の刑に処した。
一方、稲田家には、北海道静内への移住命令が下る。刀を斧や鍬に代え、山野を開拓する。遥かに遠い北の大地での苦闘と希望を映画化したのが、吉永小百合主演の『北の零年』。その中にも、たまの休日、皆がそろって楽しむ場面や、稲田家当主の到着を祝うシーンに、人形浄瑠璃が登場する。
淡路島は、古事記や日本書紀で、日本で初めてできた国とされる。春の良き日、国生みの神話の島から、奥州の「まほろば」白河に福を運んでくれた。

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