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市長の手控え帖 No.113 「シャネルという精神」

市長の手控え帳

 

 今年は第1次大戦が終わって百年。1914年6月、オーストリア皇太子を撃ったサラエボの銃声から、戦争が始まる。ナポレオンに蹂躙されたヨーロッパは、力の均衡が図られ、局地戦を除き百年間平和が保たれていた。どの国も本格的な戦いは望んでおらず、短期で終わると見ていた。だが誤算の連続で、4年にも及び、1千万人近くの死者を出した。大戦は古い世界を叩きつぶし、人間の感性やものの考え方を大きく変えた。

 まず、戦地か銃後かの別なく、国民を総動員する総力戦になったこと。特に、戦車や潜水艦、毒ガスといった先端技術を駆使した新兵器で、戦争の様相が一変した。中でも、航空機の登場は劇的だった。偵察用から空中戦へ。地上部隊や軍需工場への攻撃。さらに大型機による都市への無差別攻撃へと拡大。多くの一般市民が犠牲となる。

 また、ドイツやオーストリア帝国の崩壊で東ヨーロッパ諸国が独立。植民地での独立運動が活発化。社会主義ソヴィエトの誕生。参政権を含む女性の社会進出に拍車をかけたことなどがあげられる。

 大戦は女性の服装にも大変革をもたらした。男性は戦場に送られる。多くの女性が現場で働くようになる。それには、動きやすい服が必要となる。足首まで届くスカートや、身体を締めつけるコルセットの窮屈さから脱する時代になった。それを体現したのがココ・シャネル。

 本名ガブリエル・シャネルは、孤児院で育った。逆境が生んだ激しい気性と、自由を求める強い心が生涯を支えた。ココは愛称。お針子の傍ら歌手をしていた頃につけられた。パリに出た。過剰な装飾を嫌い、飾り気のないシンプルな帽子をデザイン。これがあたった。英国青年実業家の援助を受け「シャネル・モード」が開店した。

 さらに、ノルマンディーの高級避暑地に店舗を出す。直後に大戦が始まる。「非常事態の中で人は才能を発揮するものよ」と、働く女性の実用的な服を考案する。疎開してきた上流階級の女性も身軽な服を求めた。だが戦争で布地は不足。そこで目をつけたのが、男性の下着に使われていたジャージー素材。安くて、丈夫で、動きやすい服は大ヒットした。

 シャネルの「シンプルで着心地が良く無駄がない」というスタイルは、女性の身体を解放し、自由のシンボルとなった。シャネルは、機能美を追求した斬新的な発想で、19世紀的なものを葬り去った。

 それまでの香水は花の原料だけで作られた。しかも大量に使うので高価。"全ての女性に香水を"と、新たな香水に挑戦。できたのがシャネル5番。花に化学合成品を加え大量生産に成功。マリリン・モンローの名言もあり人気をさらった。

 絶頂期にある頃、第2次大戦が始まる。シャネルは突然店を閉める。スイスでの隠遁も含め、15年もの長い沈黙に入る。71歳になったシャネルは再起を期してパリへ。彼女が葬り去ったスタイルが、クリスチャン・ディオールらによって息を吹き返したことに憤慨した。

 しかし、マスコミは「1930年代の亡霊」と酷評。英仏の女性の反応も芳しくなかった。一方、米国では、働くにもパーティにも着れる服は、圧倒的支持を受けた。それが男の服装をヒントに、英国仕立てや素材の良さを女性服に応用したシャネルスーツ。狙撃されたケネディ大統領を抱きかかえたジャクリーン夫人も、ピンクのシャネルスーツだった。

 「流行は追わない、大事なのは自分のスタイルを確立すること」。曖昧さをはねつけ、心の奥に反発の炎を燃やし続けた。「20世紀最大の女は、キュリー夫人とシャネル」とバーナード・ショーは言う。シャネルは87歳まで仕事を愛し、人を愛した。「仕事がない日曜日は嫌い」という、その日曜日にこの世を去った。

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