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市長の手控え帖 No.116「ハヤシライスと丸善」

市長の手控え帳

 

人には誰しも、懐かしい食の思い出がある。小学生の頃。凍りつく寒さの中、だるま市の後に食べた中華そば。香ばしい醤油の匂いに、チャーシューやメンマ。中学生の頃。映画を観た後に食べた、ふわふわとろとろ卵のオムライス。高校の入学式の後、父と食べたサクサクとしたトンカツ。その時の情景と味は、今も忘れられない。
上京し大学へ。大学には学生食堂がある。メニュー表には、麺類、野菜炒め、魚や肉定食…。目を移すとカレーライスの隣に"ハヤシライス"の文字が飛び込んできた。これは何だろう?食券を買い、コーナーに並んだ。大皿のご飯の上に、赤黒いドロッとしたものがのっている。スプーンですくってみた。これまで食べたことのない甘酸っぱい味が、口に広がる。これはうまい!何故か都会の薫りを感じた。
ハヤシライスは「薄切り牛肉とタマネギをドミグラスソースで煮たものを、米飯の上にかけた料理」。ハヤシライスの元祖については諸説あり、その中に、ある人物に由来するとの説がある。
その名は、早矢仕有的。1837年、美濃の国に生まれる。名古屋で医学を修め、故郷で開業。村人の期待を一身に担ったが、時代は幕末の激動期。松本良順や緒方洪庵ら、名医が集う江戸へ憧れた。親しくしていた庄屋高折善六から、江戸への遊学を勧められる。青雲の志に燃える有的は江戸に出る。ほどなく裕福な商人の援助を得て開業。美濃岩村藩のお抱え医師にもなった。若くして優れた才覚があったことがうかがえる。
さらに向上心はたぎる。小さな漁村だった横浜が、開港後、洋館の立ち並ぶ貿易の街に変貌していた。世は英語の時代になると読み、横浜に出ることを決断。診療所を開く一方で、貿易にも強い関心を持った。それには英語が欠かせない。早速、福沢諭吉の慶応義塾に入る。戊辰の5月。上野では、幕府彰義隊と新政府軍が戦っていた。福沢は砲弾の響く中、平然と英語で経済の講義をしたという。有的はその塾生の一人だった。
このあたりの行動は実に素早い。時代の目指す方向へ一直線に進んだ。医業のかたわら、洋書・薬品等の販売を始めた。開業は明治2年元旦。屋号は、地球を相手に商売するとの意味をこめ"丸屋"とした。数年後、恩人善六に謝意を示し"丸善"と改名。輸入書籍や文具を取り扱う大型店として発展していく。
丸屋創立にあたり、その目的を明らかにする趣意書を作った。「日本は列強と肩を並べるためにも、貿易と商業を振興すべき。そのため、教育や医療に必要な洋書や薬品、医療器具の売買を行う」。また「経営を一人に任せきりにすると危険。出資者と働く人の合議とする」。
世襲が基本だった商習慣を廃し、所有と経営を分離するなど、近代的形態にした。さらに「人は誰かの家来としてではなく、自分の意思と責任で自分自身のために働くもの」。福沢の独立自尊の精神を基に、働くことの意義を説いた。
一方、社員の向学心を支援した。丁稚とよばれた年少者を「見習生」といい、英語や簿記を教えた。人材が会社の宝であることを十分承知していた。丸善は西洋の文化・学術を紹介した。その商品によって培われた気風は「丸善文化」と呼ばれ、多くの文化人に愛された。
丸善名物といえば「早矢仕ライス」。丸善ビルには、「ありあわせの肉や野菜をごった煮にして、外国人に振る舞ったのが原点」とポスターが掲げられている。また、医師時代に栄養失調の患者へ滋養剤として食べさせたとの逸話もある。
早矢仕有的は、卓越した先見性と情熱で、明治文化に大きな足跡を残した。丸善に寄ると、青春の味を求め、ハヤシライスを食べたくなる。

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