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市長の手控え帖 No.118 「無念を晴らした南部人」

市長の手控え帳

 

 今年は戊辰から150年。白河は千人余の犠牲者が出た激戦地。7月に合同慰霊祭を行った。鹿児島市長や萩市長も参列。総理のメッセージも届き、"厳粛で気品のある式典"と高く評価された。

 戊辰戦争は、会津や庄内を標的に、薩長が無理矢理しかけたもの。東北諸藩はこれに抵抗するため同盟を結ぶ。だが、形勢不利とみるや、同盟の主役仙台・米沢は腰を引く。孤立した会津は、潔く戦い敗れる。朝敵として、憎悪を一身に受け、誠に悲惨な仕打ちをうけた。

 律儀に盟約を守った藩がある。仙台への義理で加盟し、西軍側の秋田を攻めた南部藩。賊軍として、厳しく処断された。家老楢山佐渡は切腹、八戸は津軽藩に編入された。切腹の刻限。終焉の地、報恩寺の近くを「満眼に悲涙をたたえて」歩く少年がいた。後の平民宰相原敬。会津の怨念が、東京帝大総長山川健次郎を生み、南部の屈辱は大政治家を生んだ。

 首相になる一年前、盛岡で戊辰殉難者五十年祭が行われた。原は自ら祭主となり、「戊辰戦争に賊も官もない。政見の違いがあったのみである」と読み上げた。

 原は15歳で上京。神学校で仏語を身につける。その後、新聞記者となる。活躍が外務卿井上馨の目にとまり外務省へ。フランスが清に進出し、その交渉に仏語の堪能な者を必要としていた。天津やパリに勤務した後、陸奥宗光に出会う。これが原の運命を拓いた。陸奥外相の下で次官にまで昇進する。広い視野とリベラルな見識の陸奥を深く敬慕した。

 そりが合わない人物が外相になると、あっさり辞職。明治30年、大阪毎日新聞に入り、翌年社長となる。3年後、伊藤博文が立憲政友会を結党。原は入党し、幹事長になる。伊藤は明治体制を築いた中心人物。人望があり、権力や金に淡泊。明治国家を自分の芸術作品とみており、円滑な運営にのみ心を砕いた。

 現憲法は、国会を国権の最高機関としている。だが明治憲法では、内閣・衆議院・貴族院・枢密院・軍が各々天皇と直結していた。権力を統合する中心がなかった。分立する機構を束ねた薩長の元老が、実質的に権力を独占していた。

 政党嫌いの元老の中で、伊藤は柔軟だった。一定の力を持つ政党は、権力の均衡に必要と考えた。だが、統治の主役になることは念頭にない。原は違う。「万機公論に決する」精神を体現する政党こそが、国政を担うべきとの信念を持っていた。いよいよ藩閥との闘いが始まる。

 藩閥の親分は山県有朋。華やかな伊藤の前では影が薄かったが、徐々に力が逆転する。山県は異常なほど権力に執着し、策謀好き。陸軍を足場に権力機構を支配し、強大な派閥を形成する。

 原の策は妥協と抵抗。まず、山県と正面から敵対せず、少しずつ外堀を埋める。次に、衆議院で圧倒的多数をとる。それには、地方の名望家を取り込み、足場を固める。有効なのは、県や市町村を統制する地位に就くこと。原は、知事の任免権を持ち、警察を把握し、公共事業を配分する内務大臣に三度就任。山県系の知事を原系に入れ替える。また、鉄道は産業と地方の発展に不可欠と、全国隈なく敷設した。「我田引鉄」と批判されたが、支持拡大には大きな効果があった。

 原は一糸乱れぬ政友会を背景に、山県と火花をちらす。三歩進んで二歩下がり、有利な条件で妥協する。次第に山県も原の実力と人格を認めるようになった。政治とは「情熱と判断力を駆使し、堅い板に力を込めて、じわじわと穴をくり抜いていく作業」であることを実践した。

 大正7年、原は藩閥を抑え初めての政党内閣を樹立。50年かけ無念を晴らした。爵位・叙勲は拒絶。雅号は、薩長が東北を軽蔑した「白河以北一山百文」をもじり「一山」とした。晩年、「わけ入りし霞の奥も霞かな」と詠み、遥かな旅路を偲んだ。

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