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市長の手控え帖 No.121 「日本を背負った快男児」

市長の手控え帳

 

 国を率いるとは、なんと重く辛いものか。英のメイ首相、独のメルケル首相、仏のマクロン大統領の苦悩の顔が全てを表している。近頃、吉田茂を思う。戦後日本の復興を一身に担った。もともと事務次官や駐英大使を歴任した外交官。一時は、外務大臣候補となったが、英米協調派とみられ実現しなかった。英米の力を知る吉田は、無謀な戦争に反対。陸軍ににらまれ刑務所にも入った。

 本人は政治家になる気はない。運命の導きか。反戦の士、優れた国際感覚が首相の地位に押しあげた。時に67歳。就任したものの、日本は焼け野原も同然。しかも事実上の支配者は、連合国総司令部(GHQ)のマッカーサー元帥。GHQの指示を受けつつ、民生の安定と経済の復興を図り、早期の独立を目指す。途方もなく厳しい道が待っていた。

 だが「戦争で負けても外交で勝った歴史はある」と意気軒昂。敗者の卑屈さはない。奥方は大久保利通の孫。義父の資産を相続し、金には困らない。衣服・酒・車も一流。人を食ったようなユーモアとウィット、高級葉巻で煙に巻いた。

 吉田は政権基盤を強めるため、政策にたけた官僚を国会に送った。池田勇人や佐藤栄作など、後の首相たちが政府の中枢に入る。同時に、吉田の意を受けて、終戦処理の交渉を行う懐刀が必要だった。英語に堪能で、胆力があり、劣等感のない人物。心に秘めた男がいた。

 白洲次郎。吉田を敬愛し、吉田も心から信頼した。180cmのすらっとした身体に端正な顔立ち。高級スーツに身を包み、高級車を乗り回す。時に43歳の男盛り。「我々は戦争に負けたが奴隷になった訳ではない」。英国留学で培った流暢な英語と、「相手が誰であれ理不尽な振る舞いは許さない」英国紳士の流儀で、堂々と渡り合った。

 GHQ民政局長が“白洲さん、あなた英語がお上手ですね”と。勝者の驕りをみた白洲は、「いいえ閣下、あなたももう少し勉強なさると一流になりますよ」と切り返す。とはいえ、尋常な苦労ではない。GHQから示された新憲法の草案を、三日三晩一睡もせず翻訳した。ひどく憔悴したが、弱音は吐かない。

 妻正子(高名な随筆家)は、寝言で怒りをぶちまけるのを耳にした。シャラップ(黙れ)、ゲットアウト(外に出ろ)。マッカーサーは、ただひとりの従順ならざる日本人と評価した。白洲は、日本を背負い、毅然として紳士の美学を貫いた。

 白洲は、明治35年兵庫県芦屋の豪商の次男に生まれる。少年時代は乱暴者。17歳でケンブリッジ大学に留学し、10年を過ごす。「不良だったから島流しにされた」と冗談めかす。この年月が完璧な英国紳士に磨きあげた。体格に恵まれた美丈夫で、仕送りも潤沢。最高級のスポーツカーでヨーロッパ大陸を疾走した。

 “民尊官卑”の気風が強い大学の目標は、「ジェントルマンを育てること」。紳士たる者の精神・教養・礼儀作法を叩きこまれた。帰国し、樺山伯爵令嬢と結婚。互いに一目惚れだったという。白洲は水産会社の役員として世界を飛び回る。

 昭和11年、吉田は英国へ赴任。なんと白洲のロンドンの常宿は日本大使館だった。吉田はオールドパーを、白洲もスコッチモルトを飲み、ビリヤードに興じた。数年後「バカな戦いが始まる。日本は敗れる」と、東京郊外の農家に隠棲する。武蔵と相模にまたがる地と、無愛想をかけて“武相荘”と名づけた。

 戦後、国の進路が定まると白洲は一切の公職を退く。以来25年間、ゴルフと車と大工仕事で過ごす。特にゴルフのマナーを重んじ、軽井沢GCのテラスから会員のプレーを厳しく監視した。時の首相でも特別扱いせず、護衛の立ち入りを禁じた。遺言は「葬式無用 戒名不用」。最後までスマートな快男児だった。

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