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市長の手控え帖 No.123「壇ノ浦にたたずむ」

市長の手控え帳

 

昨年秋、萩市で明治維新の式典があった。その足で下関を訪れた。古くは「赤間関」と呼ばれ、大陸への重要ルートだった。下関も数々の歴史の舞台となった。関門海峡には、武蔵と小次郎の決闘の地、巌流島が浮かぶ。幕末、長州藩は英米4か国と戦い大敗。攘夷の不可能を悟り、武力を整え倒幕に進む。料亭「春帆楼」で、日清講和条約を結び台湾を得た。
海峡に面した国道を行くと、竜宮城のような、鮮やかな朱色の赤間神宮がある。目の前の壇ノ浦に入水した安徳天皇を祀っている。壇ノ浦は、平家一門が滅びさった涙の海。栄華を極めた清盛の死からわずか4年。没落の坂を転げ落ちる。運命とはいかに過酷なものか。
海沿いを歩くと、大きな碇をかつぎ、綱を幾重にも巻き、かっと目を剥いた武者像がある。清盛の四男知盛。沈着な長兄重盛が病死。三男宗盛が棟梁となるが、優柔不断で無能。知盛が壇ノ浦戦を指揮した。華やかな義経に比べ、知盛は地味な存在。だが、運命を従容と受け入れ、懸命に生きた知盛にひかれる。像の前で、しばし海の関ヶ原を思い浮かべた。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす…」。格調高い名文で始まる平家物語。平家の栄華から滅亡までを描いた一大叙事詩。琵琶法師が歌うように語る。この世に不滅はない。生きとし生けるものは、移ろい変化する。「諸行無常」が物語のモチーフとなっている。
一方で、儚くも必死で生きた人々。そこから紡ぎだされた壮大な人間ドラマでもある。都を追われた後、兵力を集め一ノ谷に陣を敷く。後ろは断崖、前には水軍。だが、義経は騎馬軍を率い、山を駆けおりてくる。平家は総崩れ。
その中で鮮やかに散った武将がいた。清盛の弟、平忠度。武勇に優れ、歌にも秀でていた。都落ちの折、歌人藤原俊成に託した歌が『千載集』にある。忠度は敵陣の中を悠然と退く。恩賞狙いの武士が戦いを挑む。相手をねじ伏せた忠度の右腕を家来が切り落とす。観念した忠度は西に向かい念仏を唱える。
清盛の甥、平敦盛。横笛の名手。ひときわ華やかな軍装。郎党とはぐれ単騎沖を目指す。背後から熊谷直実が「敵に背中を見せるは卑怯なり」。海からとって返す敦盛。直実が組みしいたのは紅顔の美少年。哀れさにさめざめと泣いた。黙殺すれば助かったが、誇りを捨てて生きのびるより、武士としての名を惜しんだ。
またもや奇襲により屋島で平家を蹴散らした源氏は、勢いに乗り壇ノ浦を目指す。知盛は筑紫側に本拠地を構え、迎えうつ準備をしていた。海戦は平家の得意とするところ。潮の流れも調査し、綿密な作戦を練っていた。壇ノ浦の潮は日に二度東へ、二度西へ激しく流れる。
1185年3月24日の朝が明ける。赤旗の知盛軍八百艘、白旗の義経軍五百艘が対峙する。午前10時、平家に最も有利な東流になる。知盛は本船の屋根に突っ立ち大号令を発する。「今日が最後の戦い。どんな勇将でも運命尽きれば滅ぶ。名を惜しめ!」。滅亡を予期しつつ、だからこそ見事に生きてみせる、と決意した人だけが発しうる凛とした響きがある。
当初は優位に戦うが、源氏は崩れない。そのうち裏切りが相次ぐ。さらに義経は船戦のルールを破り、操船する水夫を射殺す無法にでた。潮が反転する。平氏は追いつめられ、最期の時を迎える。知盛は安徳帝の御座船に移り、自ら船中を掃き清めた。平家一門と、我が身の総てを投げ捨てるように。母時子が「波の下にも都はあるぞよ」と帝を抱いて入水。
これを見届け「見るべき程の事は見つ」。ずぶりと海に入った。知盛は平家の栄華と転落、人間の悲喜劇を見つめた。そして大宇宙からみれば塵のような人の営みも。知盛こそ平家一門の精華だと思う。

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