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市長の手控え帖 No.130「鈴木商店という蜃気楼」

市長の手控え帳

 

 神戸。開放的で異国情緒漂う街。幕末、欧米は開港を迫る。孝明天皇は拒否。時の老中は、白河藩主阿部正外。板ばさみに苦しむが、開港を決定。朝廷から責められる。官位召し上げの上、棚倉藩に移封。戊辰の折、白河は空き城だった。
明治を迎え神戸は賑わった。その中に、砂糖を商う鈴木商店という小さな店があった。店主岩治郎、妻よね。この店が、大正半ばに、三井・三菱に匹敵する大企業へ成長する。その立役者は、金子直吉。怪物と評された。土佐の貧家の生まれ。学校には行っていない。質屋の丁稚になり、質草の本を貪り読む。"質屋大学"で膨大な知識を蓄えた。
小男、極度の近視、身なりに無頓着。風采はあがらないが、無類の仕事好き。誠実無私の人柄。明治27年に店主が逝去。
よねを代表とし再出発する。その直後、直吉は樟脳の先物取引で大きな損害を出す。よねは咎めず店の命運を直吉に託した。直吉はよねに忠誠を誓い、自らに実物のない取引を禁じた。よねは"お家さん"と呼ばれ、店員の精神的支柱になった。夢と希望を乗せ、鈴木丸が出航する。
商いで国益に貢献する!直吉の国を思う志は高い。当時、防虫・防臭やセルロイドの原料に利用されていた樟脳に着目した。日本は日清戦争で台湾を得た。台湾は樟脳の宝庫。台湾総督府民政局長は、後藤新平。財政的自立のため、樟脳の専売制を図った。直吉は後藤に接近。これに反対する勢力を切り崩した。
その功により、樟脳油の65%の販売権を取得。これが発展の契機となった。自社の樟脳工場を作り、薄荷・砂糖の生産にも着手する。これを金融面で支えたのが台湾銀行。後藤と台湾銀行は、商店の運命に大きく関わることになる。
時代は重工業へ移る。鉄鋼・造船・紡績・製粉…。次々と事業を興す。他財閥は金融業を中心としたが、直吉は「生産こそ最も尊い経済活動」との信念を持った。煙突男との異名もとる。また情報が盛衰の鍵を握ると、ロンドンを中心に各国へ支店を置いた。直吉は神戸から世界を見つめていた。
大飛躍は第一次世界大戦。ヨーロッパでの軍需品の高騰をいち早く予測。全ての商品の一斉買いを、特に「鉄と名のつくものは、金に糸目を付けずに買いまくれ」と指示。物資不足に悩む連合軍に、船舶や食糧を大量に供給した。「三井・三菱を圧倒する。さもなくば天下を三分する」意気込みを持てと檄を飛ばす。
鈴木商店は瞬く間に新興財閥となる。傘下企業は80。大正6年の売上げは15億(現在の約8兆円)。当時のGNPの約1割。スエズ運河を通る船の1割は鈴木の船といわれた。翌年も16億を超え、文字通り日本一になる。帝大・高商(一橋、神戸大)の秀才が次々に入社。
だが不幸の影がさす。米騒動が全国に波及。マスコミは、買い占めの元凶は鈴木と煽る。時の権力者、後藤批判の口実にも利用された。本店は無残に焼かれた。大戦が終わり一転して不況へ。軍縮条約で艦船数が制限され、製鋼・造船の中核が大打撃。さらに関東大震災…。
台湾銀行からの借入が膨らみ、融資総額の7割を占めた。政争の具にもなった。そして融資停止。昭和2年"巨船"が沈む…。事業拡大に走り過ぎた。系列の銀行を持たなかった。直吉に依存し、近代化が遅れた。だが、大きな種をまいた。日商岩井(双日)、神戸製鋼、帝人、石川島播磨重工業、日本製粉…。これら名門企業は鈴木商店を源流とする。また、政財界で活躍した人材も多数生んだ。
お家さんは"大きな夢をみさせてもろうた"と、倒産にも泰然としていた。直吉は終生借家住まい。一銭の私財も残さなかった。誰もがあまりの質素さに驚いたという。鈴木商店は、近代日本の壮大なロマンであり、壮麗な蜃気楼だった。

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