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市長の手控え帖 No.136「うま味の素と文学の素」

市長の手控え帳

 

 日本三大発明とは。御木本幸吉の「真珠養殖」、豊田佐吉の「自動織機」。それに池田菊苗の「うま味調味料」。ミキモトパールの創始者、トヨタ自動車の先駆者に比べ菊苗の知名度は低い。だが彼は、化学を通して国の発展と健康増進に心を砕いた大化学者だった。
 菊苗は江戸末期に生まれる。17歳の折、家出同然に上京。金なし縁故なし。あるのは、化学への尽きない興味と向学心のみ。だが、天は非凡さと鉄の意志を持つ若者を見捨てなかった。官費が支給され、東大予備門を経て理学部化学科へ進む。1899年ドイツへ留学。世界的権威の学者のもとで2年間学ぶ。ロンドンへの短期留学の後、東大教授となる。
 菊苗はノーベル賞に価するような最先端の理論化学を追求する。その一方、日本人の食生活や栄養の改善に貢献したいとの思いも強かった。ドイツ人の体格に圧倒された経験から欧米に肩を並べるには体を強く、大きくしなければという使命感もあった。海水加熱による製塩、温泉成分の分析などの実用的研究に取り組む。海外も含め49件の特許を取得した。
 中でも、うまみの発見による新たな調味料の製造方法は画期的。着想は妻の買ってきた出汁用昆布にあった。昆布を鍋に敷き湯豆腐にした。葱や生姜を載せた熱々の豆腐を口にする。うまい!…菊苗は確信した。甘い、塩からい、酸っぱい、苦いのほかに″うまい"と感じる第五の味覚があることを。昆布から″うま味"を抽出できないものだろうか?
 昼は教鞭をとり、夜は台所わきを実験室にして研究に励む。ついに、うま味成分の取り出しに成功。人類がうまいと感じてきた味の正体は、グルタミン酸であることを世界で初めてつきとめた。グルタミン酸を調味料として精製することを決意。だが大量生産・販売には多額の資本がいる。長期の赤字も出る。事業に挑む者は容易には見つからない。
 菊苗には意中の人がいた。海草を原料に、医薬品や殺菌剤のヨードを製造している鈴木三郎助。彼は好奇心旺盛で、起業家精神に富んでいた。独創的な発明は事業家魂に火をつける。これは儲かるぞ。特許も共有し、社運を賭けた事業に乗り出す。生産技術の確立や工程の効率化に苦しんだ末、工業化に成功。
 さあ販売だ。それには名前が大事。菊苗は味精としたが、社員は薬品ぽいと難色。様々な案から『味の素』に決定。日本を代表する食品メーカーが誕生する。
 ロンドンに着いた菊苗を迎えたのは夏目漱石。英国に留学し、英文学の研究をしていた。漱石は友人から下宿の世話を依頼されていた。菊苗は漱石の下宿に52日間同居する。文理に通じた二人は日々人生を、科学を、文学を語りあう。大きな知性が時に共鳴し、時に火花を散らす。肝胆相照らす仲になる。
 この頃漱石は深く悩んでいた。菊苗に語る。「文学には越えられない壁がある。文学を理解するには、その国固有の歴史や文化を体に刻むことが必要なんだ。英語の修得だけでは、英国と英国人の実体をとらえることはできない。その点、科学者はうらやましい。明確な目標があるし、世界共通の方程式で競える。」
 菊苗は答える。「君には日本語があるじゃないか。英文学の素養をいかし、日本文学の新しい可能性を追ったらどうだ。小説なんかはどうだい!それに文学と科学は似ている。小説家は架空の人物を設定し様々な物語を創る。科学者は、自然現象から物質とエネルギーを抜き出し、その間に起きる現象を演算する。心の作用は全く同じじゃないか。」
 その言葉が体に浸みていく。うっすら文学者の輪郭が浮かんできた。寺田寅彦は菊苗の言葉が触媒となり、漱石の心に化学反応を起こしたと言う。菊苗は味の素を発明し、漱石は文学の素を発明した。

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