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市長の手控え帖 No.148「難民の母」

市長の手控え帳

 

アフガニスタンで難民が出る。国外退避する市民が空港に殺到。必死の形相で米軍機にしがみつく。空港内に逃げこもうと高い塀をよじ登る。目を覆いたくなる。国際政治の何と非情なことか。ベトナム戦争末期の悲惨な「サイゴン陥落」の光景が思い浮かぶ。
冷戦が終わる。東西の力の均衡が崩れると、堰を切ったように民族的・宗教的紛争が噴きあがる。少数派が迫害され、難民となり劣悪な環境に置かれる。難民の保護支援を担うトップが、国連難民高等弁務官。冷戦後の1991年。この職に就いたのが故緒方貞子。その後10年、困難な任務に身を捧げた。150センチメートルの小さな体に防弾チョッキとヘルメット。命の危険を伴う地域に乗りこんだ。
あらゆる手段を講じ難民キャンプに生活物資を届け、治安を守った。「マダム・オガタ」は世界から賞賛された。「人の命を守ること。苦しんでいる人に思いを寄せ行動すること」。これが緒方の基準であり、いささかも揺らがなかった。類まれな使命感・信念・行動力。日本人初の女性弁務官は、"小さな巨人"と呼ばれた。
湾岸戦争が勃発。イラクがクウェートを侵略するが、多国籍軍はイラクを駆逐した。この機に乗じ、イラク国内のクルド人が蜂起。クルド人は、イラン・トルコ等に2千万人が住む。国を持たない世界最大の民族。だが政府軍に追いつめられる。40万人がトルコに向かうが、国境は封鎖され山岳地帯に立往生する。
当時は国外に逃れた人々を「難民」としていた。緒方は決断する。"この人たちを見殺しにはできない"。部下は職務の範囲を越えていると反対。"いいからやりなさい!"。難民キャンプを設営し、イラクの攻撃を免れる保護区を作った。国内避難民を難民に含めた。緒方は現地の状況を見極め、前例を覆した。
ボスニア紛争。ユーゴスラビアからボスニア・ヘルツェゴビナが独立。途端に民族対立が激化する。サラエボは凄惨な戦いの場になった。優勢なセルビア人はクロアチア人らを無差別攻撃。冬季五輪が開かれた美しい町は死の谷となる。街道はセルビア人が押さえ、食糧も燃料も運べない。一刻の猶予もない。
緒方は動く。"命さえあれば次のチャンスはある"。国連に各国からなる保護軍の創設を要望。軍の支援で生活物資を届けた。軍との同一行動に大きな反対もあったが、押し切った。緒方は難民保護活動の内容を大きく変えた。
緒方は名門の生まれ。父・祖父ともに外交官。祖父は外務大臣も務めた。曾祖父は5・15事件で暗殺された犬養毅首相。「貞子」と名づけたのも犬養。緒方が後に政治学を専攻したのは、軍人テロへの怒りと、その政治的・社会的背景に強い関心を持ったからだと思う。
幼少期を米国、中国で過ごす。帰国し聖心女学院へ。戦後聖心女子大学卒の一期生となる。暗い時代は終わった。もっと学問しようと米国に飛びたつ。ジョージタウン大学で国際関係論、カリフォルニア大学バークレー校で政治学を学び博士号を取得。研究テーマは満州事変。
昭和恐慌による失業、農村の貧困、政治家や資本家への不満。これらが関東軍の満州支配を後押しした。粗末なことに、軍中央は関東軍を制御できない。現状を追認するだけの政治の無策。緒方は国家の無責任体制が破滅を招いたと断じる。これを繰り返してはならない!
1976年、大学教員の緒方は国連公使に抜擢される。抜群の英語力と行動力は注目を浴びる。そして国連難民高等弁務官。さらに国際協力機構理事長へ。ここでも10年、85歳まで働く。緒方は曖昧さを嫌った。一方、難民保護も経済支援も、世界政治の力学を直視した上で明確な方針を示した。緒方貞子はリアルな平和主義者であり、高貴な精神の人だった。

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