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第一回「松平定信を敬愛した渋沢栄一」


渋沢栄一(南湖神社所蔵)渋沢栄一(南湖神社所蔵)


日本資本主義の父といわれ、3年後には新一万円札の肖像画になる予定の渋沢栄一(しぶさわえいいち)が、松平定信(まつだいらさだのぶ)をあつく敬愛していたことはあまり知られていません。
白河藩主だった定信は、30歳の天明7年(1787)6月に、老中として江戸に上り、後に寛政(かんせい)の改革と呼ばれる幕政改革を行いました。
その際に、国元の白河を離れることになり、家臣たちに肖像画を遺(のこ)しました。
これは定信が自ら描いた自画像で、白河を留守にする間、この自画像を定信の分身と思い、今まで通り忠勤に励んでほしいという願いが込められています。
この逸話は、定信の尊大さを物語っているようにも感じられますが、決してそうではなく、八代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)の孫として生まれ、将軍家の血筋に対する矜恃(きょうじ)と、徳川家の繁栄や幕府の存続を人一倍強く願う熱意の現れでした。それほど定信は徳川家への思いが大きく、老中としての覚悟と責任感を如実に示すものでした。
定信の決意はこれにとどまらず、神に誓う形の御心願として残っています。定信が老中に就任した翌春、霊巖島(れいがんじま)吉祥院(きっしょういん)の歓喜天(かんぎてん)にささげた願文(がんもん)です。定信は、凶作のため江戸の町に米が充分に入らず、米価も高値で庶民が難渋しているので、安心して静かに暮らせるようにと願っています。
定信は願いを聞き届けてもらうため、自らの命はもちろん妻子の命をも懸けると誓っています。このことを知った渋沢が、定信を尊敬するようになったと伝えられています。幕府の執政として命を懸ける定信の覚悟に、渋沢は深い感銘を受けたのでしょう。

吉祥院歓喜天願文
『天明八年正月二日、(中略)越中守一命は勿論之事妻子之一命にも奉懸候而、必死に奉心願候事(後略)』
(『楽翁公傳』(らくおうこうでん)より抜粋)

文・中山義秀記念文学館 館長 植村美洋

広報しらかわ 令和3年(2021)1月号掲載

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