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市長の手控え帖 No.74「満州鉄道の栄光」

市長の手控え帖

懐かしい名の麗人が世を去った。中国名、李香蘭。後の参議院議員、山口淑子。類まれな美貌と美声で、戦前の満州(中国東北部)の大スターとなり、日本でも憧れの的となった。「夜来香」は今でも中国で人気の曲。れっきとした日本人だが、中国人女優・歌手としてデビューした。満州に生まれ、父が南満州鉄道の社員に中国語や中国情勢を教える家庭に育ち、完璧な中国語を話した。敗戦後、中国人でありながら日本に協力したとして軍事法廷に起訴されたが、日本人と立証され無罪となった。山口は祖国日本と母国中国のはざまで苦しんだ。これが東アジアの平和と友好に身をささげる背景となった。

さて南満州鉄道株式会社は「満鉄」と呼ばれる。日本は満州から朝鮮をうかがうロシアと激突し、辛うじて勝つ。賠償として、ロシアが有していた東清鉄道のうち南半分にあたる長春~大連間とその付属地が譲渡された。これを管理運営するため、1906年半官半民の特殊会社として設立されたのが満鉄。その後、清や張作霖等の軍閥が敷設した鉄道を吸収し、満州全土の路線を管理下に置いた。

しかし敗れたとはいえ、依然としてロシアは強大。防波堤としての満州の存在は極めて大きい。満鉄は鉄道会社を装いながら、満州経営の全般を担った。

初代総裁は後藤新平。満州経営の理念を「文装的武備」とした。社会の発展こそ安定の支えであり、軍備より経済、文化、教育を充実させる政策をとった。鉄道沿線地で、撫順の石炭開発、鞍山の製鉄、港湾・電力など驚くほど多様な事業を行った。付属地の行政権も持ち、大連・奉天・長春などの都市で近代的都市計画を進めた。複数の大きい広場を真っ直ぐな広い道路で結ぶ。整然と区画された市街地に、上下水道・電気・ガスが整備される。駅や病院、学校や役所は煉瓦造りの堂々たる洋風建物。高い水準の生活、医療、教育を追い求めた。

ホテルも際立つ。主要駅に格式高いヤマトホテルをつくった。大連では今も迎賓館として使われている。満鉄はシベリア鉄道を経てヨーロッパにつながる。多くの人・物・情報がいきかう国際路線となり、沿線の都市が発展するにはこれに見合ったホテルが欠かせない。後藤は、ホテルの設備、サービスが国の成熟度を表わす尺度になると考えた。漱石も宿泊し、内装の豪華さに感嘆しつつも「浴衣でぶらぶらできないのか」と言ったとか。

満鉄に調査部あり。欧州の視線、ロシア革命、中国民族主義。国際情勢を分析し円滑に統治するには、政治経済、資源、地理、民族の緻密なデータが必要。調査なくして政策なし。俊英が集い日本最高のシンクタンクができた。特に調査部と満州国の合作が、政府が経済活動に大きく関わる日本型経済システム。満州と戦時の日本で実施され、戦後の経済政策として継承された。その中心に後の首相岸信介がいた。満州は地下水脈で現在につながっている。

昭和9年、「あじあ号」という特急列車が登場した。国内平均69キロメートルに対し83キロメートル、最高速度130キロメートル。蒸気としては驚異的スピードだった。先頭の巨大な機関車は青色の流線形。全車冷暖房、自動ドア、豪華客室、旅心を満たす食堂車。映画監督山田洋次の父は蒸気機関のエンジニア。少年はそびえ立つ運転室によじ登り、レバーやハンドルに触れた。俳優宝田明の父も満鉄の人。黒煙を吹きばく進する姿が目に浮かび、カランカラン鐘鳴らしホームに入る音が耳に残るという。大地を疾走する弾丸列車は満州の誇りだった。

東海道新幹線が走り50年。あじあ号は新幹線とつながっている。満州事変後、大陸との人員・物資の往来は増大。新しくレール幅の広い鉄道を敷き、東京~下関を9時間で走る高速列車の構想が出る。モデルはあじあ号。着工されたものの戦争激化で中止。戦後、新幹線として建設を進めたのが、満鉄理事も勤めた十河信二。70歳を過ぎ、病も抱えていたが、「鉄路を枕に討ち死にする」との覚悟で、混乱期の国鉄総裁を受ける。

技師長は島秀雄。父安次郎も広軌化と国内弾丸列車に心血を注いだ技術者。十河は島に「親爺さんの弔い合戦をやらんか」と、引退していた島を呼び戻した。叶わなかった父の夢を息子が引き継いだ。十河は建設の合意と資金の確保、島は車両や運転システムの技術克服に全力をあげた。新幹線の親が十河と島ならば、その親は満鉄とあじあ号といえる。

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