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市長の手控え帖 No.175「日本は鉄砲大国だった!」

市長の手控え帳

大学の同級生に「根来」という姓の男がいる。長身で広い肩幅。四角張った顔。和歌山市の出。根来は戦国末、和歌山から大阪南部の和泉・岸和田まで勢力を誇った根来寺の僧兵「根来衆」として、歴史の表舞台に登場する。寺領72万石で、1万人の僧兵を擁した。大名並みだ。

1543年8月、種子島に明国の船が漂着。乗っていたポルトガル人は火縄式銃砲を所持していた。島主種子島時堯は高い額で2挺を購入した。種子島は古くから砂鉄が取れ、多くの刀匠がいた。武器製造の盛んなハイテクの島だった。銃身やネジづくりの難題を神業的に解決し、8か月で国産銃を完成させた。

これを伝え聞いた根来寺の坊さんが島に渡る。製法を覚え、門前町に住む鍛冶師に作らせた。根来衆は巧妙な砲術を編み出し、精強な鉄砲隊を創設した。根来寺に近い紀の川の下流域に住む人々は、雑賀衆と呼ばれた。良質な水田に加え、瀬戸内や明との海上交易で利益をあげた。その経済力で鉄砲を仕入れる。一方操作にも長け、傭兵として諸国に出向いた。織田信長も根来・雑賀衆を恐れた。

 

兵器としての威力が分かると、鉄砲は瞬く間に広がる。根来、自由都市の堺、刀鍛冶の集団近江の国友が銃砲生産地として名をはせる。鉄砲は刀や槍と違い、発射の手順さえ覚えれば誰でも使える。火力の差が戦いの帰趨を決する。これに着目したのが信長。姉川の合戦で国友村を領有し、堺を支配下に置いた。金の成る木と鉄砲の産地を押さえた。

1575年、当時最強の武田騎馬軍団と織田・徳川が衝突する。信長は3千挺の鉄砲を用い圧倒。朝鮮出兵の頃、鉄砲は50万挺に上った。この数は世界トップ。中東を支配していたオスマン帝国は火力の強さで「火薬帝国」と呼ばれた。だが日本はその倍ほどの鉄砲を有し、兵力も50万人を超える軍事大国だった。

世界で最初に鉄砲が発明されたのは12世紀の南宋。日本を襲ったモンゴルも鉄砲を使った。火薬技術はシルクロードで中東へ、さらにヨーロッパに伝わる。15世紀、ヨーロッパ人によるアフリカやアメリカ大陸への大航海時代が始まる。

その終り頃、ようやく日本にたどり着いた。火器技術は西へ西へと進み400年の時を経て、ユーラシア大陸の西端ポルトガルから、万里の波濤を越えて極東の島へ伝わった。"後進国"の日本は、極めて短期間で世界最大の鉄砲保有国となった。何ともスケールの大きな話だ!

 

何故驚異的な速さで国産化・量産化できたのだろう?それは高度な工業的基盤の存在にあった。まずは日本刀。強い衝撃に耐える粘り強さと、紙もすっと切れる鋭さ。刀匠は硬軟両様を併せ持つ技術・技能を持っていた。次に良質の鉄鋼を作る「たたら製鉄」。木炭を燃料に砂鉄を加熱し鉄を採り出す。そこから不純物を除去し最高純度の玉鋼ができた。

国友では銃身を作る「鍛冶師」、銃床を作る「台師」、引き金を作る「金具師」の分業体制がとられていた。また大量生産には、砂鉄の採掘と輸送、木炭の製造と輸送、熟練の刀鍛冶など製造から流通のシステムが欠かせない。国内ではすでに日本刀でその体系ができていた。

徳川の世になる。平和な時代に鉄砲は無用。鉄砲鍛冶は工芸品や農業・大工道具へ移っていく。日本が泰平の眠りについている間に、欧米は強力な軍事力を整えた。ペリーは大型蒸気船と新型大砲で眠りを覚ました。だが彼は日本人の潜在的な技術力の高さを見抜いていた。

寺子屋や藩校で学ぶ教育水準の高さや職人の腕に感嘆し「日本人が一度文明世界の過去及び現在の技術を所有したならば、将来の機械工業の成功を目指す競争に加わるだろう」と述べた。同級生は途中で退社。刀鍛冶の修業を積み刀工の資格を得た。先祖の血が騒いだのだろうか。

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