市長の手控え帖 No.195「戦後80年に寄せて~不決断の責任」

1941年夏。中国戦線は膠着状態にあり、対米関係は日々悪化していた。近衛内閣は、軍人・官僚・民間の若き精鋭を集め総力戦研究所をつくった。対米開戦となった場合の工業力・海運力・石油資源等の観点から戦局を予測させた。結論は必敗!だが、東條内閣はこれを黙殺し戦争に突き進む。結果は見立ての通り、310万人の犠牲を払い惨敗した。
南方諸国を破竹の勢いで占領し、真珠湾の奇襲で沸き立つ。だが、翌年のミッドウェーの敗戦を機に形勢は逆転。次々に南洋の島を奪われ、1944年7月にサイパン島が陥落。絶対国防圏が破られ、制空権・制海権を失った。サイパンから発進する爆撃機が各都市を空爆する。
1945年3月10日。東京大空襲で一晩に10万人が亡くなる。4月1日、米軍は沖縄本島に上陸。日本で唯一行われた地上戦で20万人が亡くなる。もはや戦闘とは言えない。戦争という名の無差別大量殺戮だ。イタリアは、2年前とうに降伏。当初、怒涛の進撃をみせたドイツも東西から攻められ5月に降伏。日本も、もはや劣勢を挽回する力は失われていた。
1945年2月。クリミア半島の保養地ヤルタに、ルーズベルト・チャーチル・スターリンが顔を揃えた。3人は黒海を見下ろし"獅子の分け前"を語り合う。ドイツの分割統治。日本は「ドイツ降伏後、3か月以内にソ連が参戦。南樺太・千島列島の領有」の密約が交わされた。日ソ中立条約の相手国での重要な会談を日本は知らなかったのか?
そうではない。中立国スウェーデン駐在の軍人は、ソ連の対日参戦を打電。ドイツ大使も情報を送った。だが"不都合な真実"は握りつぶされた。ソ連は米英との講和を仲介してもらう"頼みの綱…"ある筈がない。なんとお人好しな!
国際政治は冷酷だ。ヒトラーは一方的に不可侵条約を破棄し、ソ連に侵攻した。スターリンは征服欲と猜疑心のかたまり。北海道北部の割譲をも狙っていた。4月初め。ソ連は、来年の中立条約の延長はしないと通告してきた。対日参戦の布石だった。だが、事ここに至っても「ソ連の仲介で…」と夢話をしていた。
牙をむく国にすがる。現実を直視せず、希望的観測に終始する指導者たちの姿に、滑稽を通り越して哀れさえ感ずる。戦争の大義を見つけようと、もがきながら死地に赴く特攻隊員。単騎出撃し、米空軍の餌食になった戦艦大和の乗組員。彼らにどう申し開きをするのだろうか。
米国は7月16日原爆実験に成功。17日、再び3首脳はベルリン郊外のポツダムに集まる。26日、日本に無条件降伏を迫る最終宣言を突きつけた。国内では「天皇制維持が不明確」「ソ連の署名がない」と小田原評定が続く。苦慮した鈴木首相は「ポツダム宣言を重要視しない」と発表。米英は「拒否」と受け止めた。
8月6日広島に、9日長崎に原爆を投下。遅れてはならじと、ソ連が満州・樺太に襲いかかる。それでも指導者は「陛下のご聖断」まで決められなかった。東京大空襲からの5か月で80万人もの命が失われた。前年からの死者が、全体の90%にも及んだことに慄然とする。
歴史に「もしも」はないが、大空襲の時点で停戦に踏み切っていれば沖縄の悲劇はなかった。ポツダム宣言を受諾していれば、広島・長崎の惨劇はなく、北方領土も奪われなかった。無謀な戦争に突入した指導者の責任は重い。一方、圧倒的な軍事力の差を突きつけられても、戦争を止めなかった責任も同様に重い。
今年は戦後80年。世界の秩序は大きく揺れ動いている。日本も貧富の拡大や経済力の低下等で国民の不満はたまっている。歴史上の出来事は全く同じ形では繰り返されないが、似たような状況は再び現れる。政治指導者は確かな歴史観と内外を俯瞰する目を持たなければならない。
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