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市長の手控え帖 No.202「ある政治家へのオマージュ」

河野洋平さんが亡くなった。梶山静六、野中広務ら戦争を体験し、地方議員から這い上がってきた猛者とは違う政治エリートだが"不戦"では一致していた。「戦争を起こさない」ことが政治目的との強い信念を持っていた。30歳で父一郎の後を継ぐ。初めての外国訪問がサイパン島。無数の白骨を目にして足がすくんだ。これが政治家の原点となった。

ロッキード事件で自民党への不信が高まる。1976年「反金権・保守二党論」を掲げ、新自由クラブを結成した。清新さで喝采を浴びた。だが政権党は老獪。クリーンな三木武夫を首相に据えて、建て直しを図る。「政治は可能性の芸術」。三木は粘り強く、したたかに政権を担う。徐々に離れた層が戻ってくる。

洋平新党の存在は薄れていく。追い風の凧は造作なく揚がるが、風が止むと急降下する。こういう時こそ、権謀術数や老練さが必要だが、理念に走りがちな若い集団には、これが欠けていた。洋平さんは刀折れ矢尽き、自民党に戻る。だが苦しい時に党を見捨てた人への視線は冷たい。しばらく雌伏の時を過ごす。

表舞台に出る。1992年、兄事する宮澤首相の下で官房長官に就任。翌年、従軍慰安婦問題で、旧日本軍の関与と強制性を認め「心からのお詫びと反省」を表明した。「河野談話」である。これがアジア外交の基盤となり、現政権にも継承されている。同年、リクルート事件等で敗れ下野。初めて野党に転落した。

次の総裁は?与党なら即総理。その椅子を巡り血眼の争いとなるが、野党となれば静かなもの。洋平さんが熟慮の末、手を挙げた。「総裁は野党経験のある自分しかできない」。非自民連立政権の首相は細川護熙氏。2人は衆院制度改革を実現。金銭不祥事の要因は中選挙区にあるとし、小選挙区にするものだった。

10年ほど前。大学のOB会でお会いした。「白河市長です」「はい。那須に別荘があり、何度か訪ねました。穏やかないい城下町ですね」。政治の話になった。「僕の大失敗は小選挙区制度の導入です。政治があまりに小粒になってしまいました」。率直なもの言いに心打たれた。

細川内閣退陣後、自民・社会・さきがけの連立政権が発足。本来なら第一党の自民党から首相を出すのが常道だが、長らく政敵だった社会党の村山党首を推した。洋平さんは野合との批判に"冷戦が終わりもはや保守・革新の対立を超える時期が来ている"と、受け流した。

村山内閣の副総理として入閣。戦後半世紀を迎えていた。アジア諸国との過去にどう向き合うかを話し合う。「日本が行った植民地支配と侵略を認め、多大な損害と苦痛を与えた」として『痛切な反省』と『心からのお詫び』を表明。洋平さんが深く関わった「村山談話」は公式な歴史認識として引き継がれている。

総理の椅子に手が届く瞬間があった。1995年の参院選後、首相から「自民党に政権を譲る。私の後を引き継いで欲しい」と要請された。「党に持ち帰る」と答えた。即「受ける」と言えば、引きずり落とされなかっただろう。党内基盤の弱さ、談話への反発、慎重さが災いし、幸運の女神の前髪をつかみ損ねた。

父も総理候補だった。党人派の領袖として官僚派と戦ったが、佐藤栄作に敗れ失意のうちに世を去った。「洋平首相」は河野家の悲願だったが、天運がなかった。だが、洋平さんの真骨頂は、権力から距離を置いた議長の時代にあった。健全な国会なくして健全な政府なし。自民党がタカ派的姿勢を強める中、野党への配慮を欠かさず公平な運営に努めた。

父も、名参院議長の誉れ高い叔父謙三も、早大で箱根駅伝を走った。洋平さんも箱根駅伝をこよなく愛した。毎年、小田原中継所で選手を激励する姿を思い出す。河野洋平は偉大なる敗者だった。

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