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市長の手控え帖 No.42「人を得ることの大切さ」


市長の手控え帖


この11日であの大災害から一年を迎えます。心から犠牲となられた15人の御霊に哀悼の意を捧げるとともに、避難や不自由な生活を強いられている方々にお見舞いを申し上げます。今、全力で災害復旧を進めており、大方は今月中に終えますが、4月以降まで伸びるところは不便をお掛けします。次第に放射線の値も低下し、町内会等による除染も進んでいます。今後、部分的に線量が高いスポットを重点に除染し、極力生活の不安を取り除いていきたいと思います。

今年は復興元年。なにより大事なのは希望です。しかし希望は降ってくるものでなく、生み出す努力が必要です。

昨年初め三菱ガス化学の立地が決まりました。ところが協定を結んだ矢先の災害。海外の取引先から、原発事故へ深刻な懸念が示された。海の向こうでは、日本が丸ごと放射能汚染と映ったのでしょう。苦境に立たされながらも、会社は丁寧に白河や福島県の状況を説明し、不安を打ち消す努力を続けていた。私も災害対策の骨子を決めた頃を見はからって上京。改めて白河の地盤の強さや、電気・水の供給の不安のなさに加え、津波・原発事故で気の遠くなるような打撃を受けた浜通りの復興には、中通りの素早い立ち直りが欠かせないことを訴えました。

祈る思いで何度も足を運ぶうち、段々と霧が晴れてきました。ここにきて役員会で承認され、近々工業団地の造成に取りかかります。光が見えはじめほっとひと息。会長、社長、担当役員の方々に感謝いたします。

ようやく復興庁ができました。強力できめの細かい対応ができる仕組みになっているものと思いきや、その実は誠に心もとない。少人数のうえ殆んど各省庁からの寄せ集め。当然のことながら、派遣先のことより、古巣の役所の顔色をうかがう。しかも金庫番の財務省がにらみをきかす。目玉のひとつは「使い勝手のいい交付金」。しかし実態は対象が絞られ、俎上にのっても「コレは別の事業で、ソレはだめ」と、国のさじ加減で決められる。羊頭狗肉。

後藤新平。関東大震災時の内務大臣で、1か月で復興院を立ち上げた。「計画が一日遅れれば実行は百日遅れる」と、自ら総裁となり、東京大改造構想を発表。政争や財源不足から頓挫するものの、昭和・靖国・明治通りの主要幹線や避難地にもなる隅田公園の整備など東京の骨格を造った。江戸情緒を壊したとの評もあるが、近代都市の礎を築いたことは間違いない。

新平は岩手県水沢の人でもともと医者。蘭学をものにし、開国を唱え罪を得た医師高野長英は大叔父にあたる。体を治す医術には収まりきらず、国の病を治す道へと導かれたのは長英の血か。長英は、長崎留学や渡辺華山ら開明者との交わりから欧米列強の脅威を覚り、幕政批判へ。新平は、西南戦争でコレラ菌との闘いに苦しみ予防の大切さを痛感、臨床医から衛生官僚そして政治へ。二人には、危険を予測し惨禍に遭わないよう大胆な策を講ずるという、共通したものがある。長英は火事にまぎれ脱獄。薬で顔を焼き、追っ手から逃れる執念は鬼気せまる。人脈を頼りに国内を転々とし、福島市にも潜伏していたとのこと。

よく新平の大風呂敷と言われます。しかし、ホラ吹き男爵とは違い、具体的な計画と実行力を持っており、内務省から呼ばれた若き都市計画家や土木技師は伸び伸びと腕を振るうことができた。どこか鷹揚で飄々とした人物を思い浮かべる。この点、同じ明治維新の負け組の出身でも、政党を背景に、親の仇に対する如く、青白い炎を秘め周到に藩閥政府と渡りあった原敬とは肌合いが違う。長英のすさまじいまでの執念は、新平に受け継がれなかったようだ。これが顕職を歴任しながら総理に手が届かなかった要因かもしれない。しかし歴史に名を残す人物には違いない。大災害や戦争といった緊急時に「人物」を得るかどうかは、国の運命をも左右するほどの一大事であることを肝に銘じておきたい。

新平は須賀川医学校を出ています。今の県立医大の前身で、移る前には白河にありました。明治2年8月白河県が成立。同4年7月本町旧本陣宅に、県立病院と医術講義所が設置された。白河、棚倉、石川あたりから若き医学生が集まったとのこと。残念ながら白河県が福島県に含まれ、明治5年2月に移転した。歴史上の一瞬、白河が近代病院と医学生養成の任にあたったことは覚えておきたい。  新平は「自治三訣」なる言葉を残している。「人のお世話にならぬよう 人のお世話をいたすよう そして酬いを求めぬよう」。人生こうありたいものです。

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