検索

市政情報

市長の手控え帖 No.131「子規と俳句と白河と」

市長の手控え帳

 

1月、「芭蕉白河の関俳句賞」の表彰式があった。歌枕の地への憧れもあってか、全国から多くの応募があった。選者の一人は神野紗希さん。「感動を鮮やかに伝えるには17音で十分。俳句は沈黙の詩」との講演も面白かった。神野さんは松山の生まれ。松山といえば正岡子規。江戸最後の年に生まれ、35歳で早逝した文学者。小説にも関心を示したが挫折。"人間よりも花鳥風月が好き"と、日本の自然・風流を歌う俳句・短歌の道を選んだ。
明治22年、生涯の友となる漱石と出会う。二つの大きな魂は共鳴する。だが運命は残酷。肺結核を患い喀血。当時結核は不治の病。正岡は我が命を10年余と定め、子規と号した。子規とはホトトギスのこと。夏を告げる風流な鳥。だが結核が急増した明治には、死病の代名詞になる。喀血する様子が、赤い咽喉を見せて鳴くホトトギスに形容されていた。
だが子規は天真爛漫。覇気と情熱がみなぎっていた。"大将にならないと気がすまない男(漱石)"は、多くの人材を引き寄せた。「病とともに命を燃やし、為すべきことをやるぞ!」と決意した。
子規は室町から江戸の俳書にある俳句を、季題別に分類する大仕事に着手。原稿は、ゆうに大人の身長を超えたという。これが俳句開眼の下地となり、鋭い批評眼が養われた。子規は、俳句はもっと自由で多様であるべきと、革新の声をあげる。二人以上で、発句(5・7・5)と短句(7・7)を延々と繰り返す連句から、発句を独立させ、俳句とよんだ。
また芭蕉の神格化を否定。特に、宗匠が月毎に行っていた芭蕉風の句会を「月並調」と批判。感情に迫ってこない。着想が形式的で新鮮味がない。用語の使用も決まりきっている。「月並み」という言葉が、陳腐・平凡の否定的な意味に用いられるのは、子規の表現に由来する。
子規の俳論の中心は写生にあった。写生とは、目に見えるものばかりでなく、感じたことや目に見えないものも、見えるように書くこと。鮮明な印象を絵画風に伝える蕪村に近い。子規は、蕪村を芭蕉に匹敵する俳人と位置づけた。
同時に短歌の革新にも着手。「貫之は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集である…」。新鮮な写生歌の万葉集を評価する。だが、独創的で全く新しいことを始めたわけではない。日本文学の伝統の真髄を学んだうえで、軌道修正を行った。子規は俳句や短歌を、短詩型文学として確立した功労者だった。
明治26年、新聞記者になる。7月19日から1か月、病を抱え「奥の細道」をたどる。それを『はて知らずの記』として連載。20日、宇都宮から白河へ。搦目の古城へ向かい、結城親子の忠義に感激する。 "涼しさやむかしの人の汗のあと"。遊郭のある中町の宗匠宅に泊。回想では、倦怠そのものの俳風と手厳しい。 "夕顔に昔の小唄あはれなり"。翌日、天神町の天満宮に寄る。 "夏木立宮ありそうなところかな"と詠んだ。
脊椎カリエスに侵され、床に臥したままの生活へ。激痛、号泣、絶叫。死の直前4か月の日々を記したのが『病牀六尺』。〈病床六尺、これが我が世界である。しかもこの六尺が余には広過ぎるのである〉。わずかな空間の中でも、知識欲と好奇心は衰えない。文学や絵画に女子教育論。何を食べ誰と会ったか…。
神や仏を揶揄し、〈悟りとは、いかなる場合にも平気で生きている事〉とつぶやく。生きる喜びと充実は、耐え難い苦痛を和らげた。 "糸瓜咲て痰のつまりし仏かな"。命が尽きる自分を笑い飛ばしている。何という強靭さとユーモア!
観るもの、思うところを、淡々と描写する平明な口語体の随筆は「吾輩は猫である」に流れ、現代に続いている。子規は、漱石を文学の世界に引き込み、言文一致を完成させた功績者でもあった。

問い合わせ先

このページに関するお問い合わせは秘書広報課です。

本庁舎3階 〒961-8602 福島県白河市八幡小路7-1

電話番号:0248-22-1111 ファックス番号:0248-27-2577

メールでのお問い合わせはこちら
スマートフォン用ページで見る