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市長の手控え帖 No.135「『大人の子守唄』に癒されて」

市長の手控え帳

 

1970年代は歌謡曲の黄金時代。学生運動の闘士がすっと企業戦士に転身する。グループサウンズも、反戦系フォークソングも勢いを失う。経済成長は一億総中流社会を実現させた。家庭にテレビが普及した。テレビの場所が茶の間になる。茶の間とテレビは大衆文化の中心となり、ここからスターが生まれた。
1971年「スター誕生!」という番組がスタートした。将来のスターを夢みる少年少女から有望な新人を発掘する試み。ここから、森昌子・桜田淳子・山口百恵の"中三トリオ"。岩崎宏美・伊藤咲子・片平なぎさ・ピンクレディーらが生まれた。審査員は企画者の阿久悠を筆頭に、中村泰士・三木たかし・都倉俊一・森田公一ら気鋭の面々。
審査員の辛辣な講評と、萩本欽一の軽妙な司会で視聴率はうなぎ昇り。阿久悠は、"上手そうに見える完成品より、未熟でも何か感じるところのある人。下手でも光る原石の人"を探した。茶の間文化は、どこにもいそうな親しまれる歌手を求めた。「スター誕生!」は、アイドル歌手の製造工場となった。
その中で時代をつくったのは山口百恵。どこか陰があり、もの憂げな少女。初めは純朴な森や、ヒマワリのような桜田の後塵を拝していた。だが、ある時点で劇的に変身した。曲ごとに音域が広がり、表現力を増していく。『横須賀ストーリー』・『プレイバック PART2』…。
複雑な心理や情念を18歳の娘が歌いきる!かといえば、日本の美しい風景が溶けこむ唱歌のような『いい日旅立ち』を、『秋桜』で母と娘の細やかな愛情を切々と歌う。国民的歌手と呼べるほどの貫録があった。素の自分に戻りたかったのか。人気絶頂の中、引退。21歳の山口は、静かに舞台の奥に消えていった。
一方、文句なしの評価を受けた少女がいた。岩崎宏美。幼い頃からレッスンを受け基礎ができていた。天まで届くような高音、沁みこむような中低音、小気味いいリズム感。歌唱力は群を抜いていた。清らかで、若竹のような真っ直ぐさは、大きな可能性を秘めていた。
バラード風の『思秋期』。詞とメロディがぴったり。"足音もなく行き過ぎた季節をひとり見送って…"。18歳の多感な乙女は、録音のイントロが鳴ると泣き始める。何度も泣く。詞と自身の経験が重なり、揺れ動く心を抑えられなかったという。青春のゆらめきと、情感がひたひたと伝わる名曲だと思う。
岩崎といえば『聖母たちのララバイ』。"この都会は戦場だから 男はみんな傷を負った戦士…"。まだ若い歌手が深い詞を理解することは難しかった。4年後、ピラミッドの前でコンサートを開く。そこには生活習慣・文化・気候すべて違うカイロで、日本を背負う企業戦士がいた。涙を浮かべ聴きいる男たち。やっと、歌に追いつけたと感じた。
思えば1980年代が日本の絶頂期。日本企業が世界の上位を占める。勤労こそが美徳。"24時間戦えますか"のCMが流れていた。世界に学ぶものなしと天に昇る朝日の勢い。だが、満ちれば欠ける。バブルという落日が迫っていた。
岩崎は商社マンと結婚。因みに夫の曽祖父は益田孝。明治初期に三井物産を創り、日本一の商社に育てた大実業家。また"鈍翁"と号し、利休以来と称された大茶人。歌との両立ができず離婚。2人の子供も手放し、歌の道に戻る。歌手生命に関わる声帯手術も受ける。癒えぬ悲しみや葛藤が心を耕し、歌に深みを増す。
あの頃は県の財政課に勤務。仕事が捗らず、うつうつとしていた日曜の昼下がり。ラジオからこの歌が流れてきた。熱いものが胸をひたしていく。できの悪い私への応援歌ではないか!背中を押してもらったことは、心の玉手箱に入っている。そう、私は岩崎宏美のファンだ。

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