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市政情報

市長の手控え帖 No.144 「理想郷を目指した老医師」

市長の手控え帳

 

関寛斎という医師がいた。地位や名誉に背を向け生涯、理想を追い求めた。1830年、九十九里浜近くの農家に生まれ、伯母夫婦の養子になる。義父俊輔は儒学者。"世のため人のために尽くせ"と教える。寛斎の能力を見抜き、蘭方医学塾の佐倉順天堂(後の順天堂大学)に入れる。「西の適塾、東の順天堂」と称せられた。創立者の佐藤泰然は"医は出世や金儲けに非ず  仁術なり"と説く。
同門に泰然の次男順之助がいた。後に幕医の養子になり松本良順と名乗る。初代の陸軍軍医総監。寛斎は苦学の末、故郷で開業。貧しい人から治療費を貰わなかった。数年後、泰然の命で銚子に移る。活気ある港町は利根川で江戸と結ばれ、醤油醸造の盛んな土地だった。
養生所の家主は濱口梧陵。湯浅(現ヤマサ)醤油の7代目。広い識見は商人の域を超え、佐久間象山や勝海舟らと交わる。有為な人材の育成には金を惜しまない。安政の大地震。生地の紀州広村を夜、大津波が襲う。梧陵は稲藁に火をつけて、村人を高台に避難させた。小泉八雲は『稲むらの火』で「生ける神」と賞賛。
梧陵は寛斎の朴訥な人柄に惚れ込む。江戸でコレラが猛威を振るう。梧陵の要請で寛斎は江戸に赴き、治療と予防を学ぶ。銚子に戻り防疫に努めた。また才能を認め、医学を学ぶよう長崎行きを勧めた。ポンと百両を提供。教官はオランダ軍医ポンぺ。良順が助手だった。
勉学に励む。その一方で咸臨丸の船医も勤め、一般診察もした。徳富蘇峰、蘆花の父親も患者の一人だった。ポンぺも「医は仁愛  患者に上下の別はない」と教える。人生は人との出会い。寛斎は俊輔・泰然・梧陵・ポンぺと、高潔な志を持つ師に恵まれた。勉学を続けたかったが、家庭の都合もあり一年余で戻る。
突然徳島藩の藩医にとの打診があった。患者もいる、宮仕えは窮屈だ…。迷った末に承諾。銚子から徳島へ。藩主斉裕とは気が合ったが、よそ者の蘭方医への視線は冷たい。斉裕が急死。鳥羽伏見の戦いが始まる。藩は西軍につく。寛斎は上野の戦いで治療に当たる。激戦地の平潟・平で、野戦病院長として敵味方の別なく手当する。良順は義を貫き会津に走る。寛斎は時代のうねりに天を仰ぐ。
驕る薩長兵に反発し、軍医を辞職。その後平民に戻り、徳島に大きな病院を構えた。医院の前の道には患者が溢れ、"関の小路"と呼ばれ、寛斎は"関大明神"と慕われた。30年が過ぎた。
老境を迎える。誰しも穏やかな老後を望む。だが寛斎の血は熱い。目は北海道に注がれる。息子の又一は札幌農学校を経て石狩で農場を拓く。寛斎は十勝北部に入植を決意。ここに理想郷をつくる!時に72歳!聴診器を斧や鍬に代える。夏は30℃を超え、冬は零下40℃に迫る。虫の大群。冷害に水害。熊や疫病が馬を襲う。粒粒辛苦。少しずつ開墾が進む。相互扶助と倹約を説き、貯えた金は共同の救済金とする「積善社」を興す。
ある日突然「木綿ずくめの着物に下駄ばきの妙な爺さん」が、東京の徳富蘆花を訪ねてきた。蘆花はトルストイの研究者。ロシアの文豪は、大農場主で農地を解放しようとしていた。父が患者だったことが分かりうちとける。後日、蘆花が農場を訪ねた。斗満川の"颯々と奔る清流"に凛冽な寛斎の人生を重ねた。
牧場は500㏊を超えたが、経営方針で対立する。米国式の大規模農場を目指す又一。土地を分け自作農家の育成を夢見る寛斎。剛健な身体も衰える。トルストイの無念の死や、明治天皇の崩御。何かが音をたてて崩れていく。大正元年10月、劇薬を呷り一人静かに旅立った。
82歳。人生の軟着陸をせずひたすら飛び続けた寛斎。もうくすぶる人生の余熱はなかった。「人並の道は通らぬ梅見かな」蘆花への形見の句だった。

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