市長の手控え帖 No.153「羊羹の歴史と美」
子供の頃、婚礼から戻る父が待ち遠しかった。楽しみは引出物の饅頭や羊羹。母が小皿に切り分けるのを見つめる。はいどうぞ。自分のを確認すると同時に、探るような目で私のを見る妹。兄ちゃんのが大きい!いや、同じだろう。パクっと口に押しこむ。冷戦が始まる。
婚礼や米寿には和菓子、誕生日にはケーキ。甘いもので家族や友人と幸せを分かちあう。中でも羊羹は特別な感じがする。誰かをもてなすためのちょっと高級なもの。一人静かに味わうもの。午後3時の休息。濃い目のお茶に羊羹。光沢があり、ほどよい厚さの羊羹を口に運ぶ。しばし、心身ともに解放される。
羊羹とは「羊の羹」、即ち羊肉のスープのこと。鎌倉から室町時代、中国に留学した禅僧が点心(食間にとる軽食)のひとつとして日本に伝えた。禅宗は肉食を禁じており、小豆や小麦粉に葛を混ぜ、蒸した。羊肉の汁物は、植物性の材料で精進料理に変わった。16世紀中頃、茶の湯の隆盛と共に、羊羹は茶席菓子として重要な役割を担った。豊臣秀吉が催した醍醐の花見の引出物に羊羹が使われた。
江戸も元禄の頃。茶道は一層盛んになる。京都を中心に公家・僧侶・裕福な商人のサロンができる。菓子職人も腕を磨き、色鮮やかで端正な形の饅頭を作った。砂糖を使った羊羹も、小豆色から白、深緑へと広がる。当時の菓子帖には、美しい切り口や斬新な色づかいが記され、デザイン性の高さに驚かされる。
菓子には野山に自生する木の実や果物、米・稗粟を加工した餅や団子。遣唐使や禅僧がもたらした大陸の菓子や点心。カステラや金平糖等の南蛮菓子がある。これが影響しあい、桜餅・金つば・大福が生まれ、羊羹・饅頭・カステラは日本人の嗜好に合った菓子に変化した。
江戸中期、羊羹に大きな改革が起きた。それまでの「蒸し」から寒天を使った「練り」が主流になる。蒸しのもっちりとした食感、やわらかな甘さも魅力だが、歯切れよくキレのいい甘さは江戸っ子の心をとらえた。フリーズドライの寒天ができ、国産砂糖の増加が背景にあった。
値段も下がり、日持ちし、ずっしり重い高級感のある練りは、贈答品として確固たる地位を築いた。また水分を残した水羊羹も底固い人気があった。この頃手軽な贈答品として使われたのが"羊羹切手"。今でいう商品券。かさばらず贈られた側にも重宝された。こうして、羊羹は菓子類のシンボル的存在となった。
羊羹は外国人の接待にも使われた。朝鮮からの親善使節、朝鮮通信使は江戸時代12回来日した。江戸までの接待用の献立に羊羹が記されている。オランダ商館長にも江戸参府の帰路、京・大阪で羊羹が振る舞われている。米国初代総領事ハリス。日米通商条約締結のため江戸に着くと、宿所に将軍から四段の重箱が届く。美しい色かたちの菓子類に感動し、本国に送られないのを残念がったとか。
羊羹の魅力を綴った名作。夏目漱石の『草枕』。「余は凡ての菓子のうちで尤も羊羹が好きだ。…あの肌合いが滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた煉上げ方は、玉と蝋石の雑種のようで、甚だ見て心持ちがいい」。胃弱で癇癪持ちの先生も、大好物を前に相好を崩していたに違いない。
谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』。「玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光を吸い取って夢みる如きほの明るさを啣んでいる感じ…。…あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる」。闇と光が綾なす日本的美と妖艶さを見事に表現している。
大陸から伝わった羊羹は、長い時間の中で日本人の心を表す菓子になった。今日の3時はどんな色つやの羊羹だろう…。
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