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市長の手控え帖 No.164「日本を背負った行政マン」

市長の手控え帳

元官房副長官の石原信雄さんが亡くなった。在位7年3か月。竹下内閣から村山内閣までの7政権を支えた。この時期は次々と政権が変わる混迷期。盤石とみられた竹下政権が早々に退陣。自民党が下野し非自民の細川政権が誕生。自民党が社会党委員長を首相に担ぎあげる。政治家が権力闘争にあけくれる中、官邸を守り"影の首相"と呼ばれた。

石原さんは旧自治省で財政課長、財政局長を経て事務次官に就任。現在の地方財政制度を完成させた功労者。氏の「地方財政論」は自治体の財政担当職員の必読書だった。昭和57年の冬。私は総務部長のお供で財政局長を訪ねた。戦前の最強官庁の内務省があった赤茶色の重厚なビル。さぞかし広い部屋だろう…。だがそこは驚くほど狭く質素だった。

部屋の主もいたって小柄。柔和な顔に穏やかな語り口。じっと耳を傾けてくださった。群馬県の養蚕農家の生まれ。良き田舎が育んだ上質な人格が滲み出ていた。国の基である地方の安定と発展を願う"牧民官"を目指した旧内務省の精神を受け継ぐ自治官僚の申し子だった。

 

財政局は各省との調整が多い。旧大蔵省とは地方財政の根幹である地方交付税総額を、旧建設省や農水省等とは補助残の地方負担額について折衝する。また、警察庁や建設・厚生・労働省の源は内務省であり、旧自治省はその親分格にあたる。自然と霞ヶ関全体に人脈ができる。

自治官僚は、課長や部長として道府県に出向し、自らの目で地方の実態を掴む。国の事業の大半は県・市町村を通して実施される。地方自治体の反発が出ないよう国との調整に心を砕く。霞ヶ関にも地方にも通じた逸材を、官邸は見逃さなかった。時の中曽根首相も、後藤田官房長官も内務省の出身。石原さんは次官退任後ほどなくして官邸に入る。

平成5年3月初旬。地方課長席の電話が鳴った。課長は不在で、課長補佐の私が受話器をとった。柔らかな女性の声で「こちらは内閣官房副長官室です。石原副長官に代わります」びっくり仰天!官僚のドンが知事ならまだしも、直接課長のところにとは…。「特別交付税配分の作業中だと思いますが、宜しければ〇〇町にご配慮戴けないでしょうか」

町村分は県が配分し担当が地方課であること、災害や先進的取り組みに配意し算定することを熟知している。命令調さは微塵も感じない。国を背負っている方とは思えない優しく謙虚な声だった。

 

官房副長官に各省を指揮する権限はない。大抵のことは事務次官の段階で決まる。副長官は各省と官邸の調整役にとどまっていた。しかし、激動する時代と石原さんの秀でた情勢分析と判断力が、副長官の知名度と存在感を高めた。

昭和天皇の大喪の礼、貿易不均衡是正の日米構造協議、自衛隊の海外派遣法案、コメの市場開放、阪神淡路大震災…。どれも一省庁では解決できない難問。首相直属の内閣官房が捌くしかない。その中心が石原さんだった。弱い政権の中で、時に政治領域に踏みこむ判断もした。

平成5年6月、北朝鮮が日本海に向けてミサイルを発射。官邸の機密事項だったが、国民に注意喚起すべきとの信念から、独断で番記者に明らかにした。夕刊には一斉に「政府筋」からと報じられた。政府筋との記事の大半は石原さんが発信源だった。″国民のための官僚"としての矜持と度胸は並大抵ではない。

石原さんは、かねてから首相の政策実現のため官邸の強化を提唱していた。それは退任後に実現した。だが今度は官僚の人事権を内閣人事局が握り、官邸の力が強くなり過ぎた。その結果、官僚が萎縮し、政権への忖度がはびこることをいたく憂慮されていた。石原さんは常に政と官の"間合い"の重要性を説いていた。まさに国士と呼ぶにふさわしい人だった。

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