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市長の手控え帖 No.166「生きている限り修行」

市長の手控え帳

ある雑誌で映画『瞽女GOZE』の記事が目にとまった。瞽女(ごぜ)とは、三味線を奏で、語り物などを唄いながら各地を門付けして歩く盲目の女旅芸人のこと。近代では新潟県の高田(上越市)と長岡瞽女が主になった。越後を中心に、上州・信州・会津・米沢等を巡業した。

水上勉の作に『はなれ瞽女おりん』がある。これを篠田正浩監督が映画化した。岩下志麻が北陸の厳しい自然と荒々しい日本海を背景に、掟を破り仲間外れにされた瞽女の愛と悲しみを演じた。粗末な着物に、杖をついてさすらう姿は哀れ。だが、うっすら浮かべた笑みは美しく、清い心は菩薩を思い浮かべる。

瞽女は、越後から80里越えで奥会津に入った。九十九折りに断崖、数えきれない丸木橋。1里が10里に匹敵するほど険しい山道を毎年越えてきた。史誌は「奥会津の田植えが終わり、夏蚕の飼育が始まる頃。いくらか目の見える手引を先頭に夜具の包みを背負い、菅笠をかむって三味線を抱え、杖をつき4~5人が一列となり峠を越した」と記す。生きるための旅であり、生き甲斐の旅でもあった。

 

映画は、最後の瞽女といわれた小林ハルを描いている。1900年、新潟県三条市の生まれ。生後3か月で視力を失う。家長の大叔父は瞽女にすると決めた。5歳で弟子入り。母は鬼になる。「優しくしていたらロクなものにならねぇ」礼儀作法、編み物、縫い物を仕込んだ。針に糸を通せないと食事を与えなかった。

三味線の稽古が始まる。弦を抑える左手の指から血が出る。泣くと「我慢できねぇなら川に投げんぞ」長い語りに耐えられるよう、真冬の信濃川で発声練習。薄着、素足に草鞋履き。喉から血が出る。あまりの厳しさに母を恨んだ。

9歳で巡業に出る。師匠は性悪だった。家に追い返し「縁切金」をせしめようといじめぬく。「師匠は母。口答えをしてはならねぇ」母の教えを守り耐えた。「いい人と歩くのは祭り、悪い人と歩くのは修行」運命をすべて受け入れた。ハルは独立した時、瞽女として生きられるよう躾けてくれた母の慈愛に涙を流した。

実家の名義で田畑を購入したが厄介払いされた。弟子のトラブルを解決するため惜しげもなく金を与えた。厳しく躾けられた分、弟子を可愛がったが良く育たなかった。「唄うのが商売だすけぇ、泣いてしまったら唄になんねぇ。娑婆のことはなるようにしかならねぇ」過酷な環境に置かれても逞しく生き抜いた。

 

瞽女は命を削り芸を体得したが、村人もこれに貢献した。「人の情で生きてきた身、精一杯唄でお返しするようにした」巡業先は娯楽の少ない農山村。瞽女の語りに村人が笑い、鼻をすする時、身の悲哀を忘れ自由な境地に遊べた。「商売する時の楽しみは、良く唄える時、拍手のある時だ」旅の辛苦を乗り越えさせたものは、唄を認め、毎年温かく迎えてくれる村人との心の触れ合いだった。

芸は誇り。金品の代償ではなく、称賛とのひきかえだった。聴き手も瞽女も貧しい常民。瞽女の生と芸は村落共同体が支えた。また、ここには瞽女や貧者に善根を施し幸を待つ民間信仰があった。

宗教的役割も期待された。養蚕地では、瞽女の三味や唄を聞かせると糸の出がいいと歓迎された。米所では田植えの頃に瞽女が来ると"田植えごぜ"ともてなされた。さなぶりに唄の上手な瞽女を泊めると"田の神様が喜ばれる"と争って泊めた。三味線の糸が安産の呪(まじな)いになると信じられた。瞽女は祝寿人(ほがいびと)だった。

ハルは晩年老人ホームで暮らす。人間国宝や名誉市民にもなり、105歳の天寿を全うした。「生きる限り全て修行と思うてきたすけど、今度生まれてきたら、たとえ虫になってもいいすけ、目だけは明るい目をもらいたいもんだ…」闇の中でも常に眩しいほどの輝きを放っていた。

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