市長の手控え帖 No.193「弱者救済に心を砕いた老中」
老中松平定信を生んだのは、百姓・町人の一揆・打ちこわしだった!寛政の改革はこれを抜きにしては語れない。天明6年(1786)8月、田沼意次の後ろ盾となっていた将軍家治が死去。同時に意次も老中を辞職した。定信の老中就任は翌年6月のこと。10か月の間に、意次派と定信派で激しい闘争があった。決着をつけたのが、天明7年5月20日から24日までの江戸大打ちこわしだった。
定信の老中就任は誠に異例だった。階段を踏まず一挙に老中首座になったこと。久松松平家は老中を出す家筋でないこと。幕政に関与できない一橋家と御三家の信任を背景にしたこと。貴種で英邁の誉高くとも、身分・家格がものをいう社会にあっては驚くべき人事であった。
大飢饉で農民が村を捨てる。田畑は荒れる。江戸に大量の浮浪者が流れ込む。貧富の差は拡大するばかり。定信の危機感は強い。まずは、労なくして金を得んとする「好利」の風潮が蔓延する田沼病を根絶することだ。それには存分に政策を遂行できる体制が必要。首尾よく将軍補佐役にも就いた定信は改革に着手する。
「政の本は食にあり」飢え、貧困はいつの時代も政権に牙をむく。その怖さを胸に刻んでいた定信は、民衆の生活を最低限のところで保証する策を講じた。寛政の改革の特徴は、都市・農村を問わず凶作や災害に備え、米穀や金銭の貯蓄を促すことにあった。とりわけ、食糧を消費するだけの都市では食糧の確保が最大の課題だった。それには常に一定量の米穀を囲っておく仕組みが必要だ。
考え出されたのが七分積金。江戸の町内を維持するには、道路や上下水道、消防、ごみ処理、祭礼等の経費を要する。町入用といわれ、間口の広さなどに応じて町人(地主)が負担した。町入用の節約に努め、その7割を積み立て、町内の自治事務を担う町会所で管理した。
積立金で米穀を籾の状態で保存する囲籾の購入、窮民への米支給や低利融資を行った。七分積金は明治の初めまで継続された。明治5年には280億円まで積み上がり、東京府の道路やガス燈の整備、商業学校の設立等に充てられた。
天保の大飢饉の折、北町奉行遠山景元(金四郎)は町会所の囲籾の乏しきを憂え、寛政の仁政に立ち返るべきと老中に進言している。幕末の開明官僚川路聖謨は「定信死して町会所残す」と記す。定信は「町人・百姓を生活、身分の低い者と侮ってはならぬ」と常に部下を戒めた。
為政者が高い理念を掲げても、役人が意を体し動かなければ実現できない。寛政期以降、江戸に名奉行が輩出する。吉宗時代の大岡忠相が名奉行と称されたのは寛政の頃から。遠山は改革の精神を受け継いだ。定信の治政が徐々に浸透し、後世にも影響が及んだと思われる。
農村にも名代官が誕生する。定信は家禄や家筋に囚われず、能力本位で選んだ。結果、全代官の4分の3が入れ替わった。その代表だったのが陸奥塙代官の寺西封元。塙領6万石と常陸小名浜領3万石に加え、陸奥代官筆頭格の桑折代官も命ぜられ計14万石を支配した。任期も塙で22年、桑折で14年の長きに及んだ。
寺西は人口増加と耕地の復旧拡大に全力を挙げる。幕府から5千両を拝借し、これに領内富裕者からの献金を加え、近隣の大名や豪商に貸し付けた。その利息を妊婦の保護や幼児の健康管理、育児奨励金に充てた。また郷倉の新改築、農業用水堰や護岸の改修を進める一方、復旧田畑の年貢を免除した。塙領民は生前に「寺西神社」を建て善政を称えた。
七分積金による町会所囲籾や公金運用による備荒貯蓄は、あくまで幕藩体制の維持のための社会政策。資本主義国では当然の対応だが、この時代に弱者救済の諸政策をとった定信の政治的能力は高い。我が白河藩主はまさに名君だった。
問い合わせ先
このページに関するお問い合わせは秘書広報課 広報広聴係です。
〒961-8602 福島県白河市八幡小路7-1
電話番号:0248-28-5501 ファックス番号:0248-27-2577
メールでのお問い合わせはこちら- 2025年10月1日
- 印刷する