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市長の手控え帖 No.200「白河が生んだ南洋交易の開拓者」

日本は明治以降、2つの対外政策が唱えられてきた。東南アジア・南洋との結びつきは必然であり、石油等の天然資源を確保しようとする南進論。朝鮮・満蒙からシベリア方面に拡張しようとする北進論。太平洋戦争前、両論が対立。結局、南進論をとり英米と衝突する。明治20年前後は南進論が噴出した頃。それは交易を通してビジネスチャンスや移住の可能性を探る、平和的な経済進出だった。

日本人には、南洋諸島は"宝の山"に見えた。フロンティアへの憧れ。夢が膨らむ。明治9年小笠原諸島を領有。南にはサイパン、グアムなどのマリアナ諸島。その南にはパラオ諸島。東へ向かうとトラック、マーシャルの島々が広がる。だが一方では常にリスクと隣合わせ。小船での3千キロメートルに及ぶ大航海、島々の治安やトラブル。熱帯気候による病気…。

明治20年、わずか45tの帆船で南洋貿易をした者がいた。これをきっかけに多くの貿易会社が設立された。だが日本の経済力はまだ弱く、技術力も低い。いずれもミニ商社にすぎなかった。それでもロマンを求め、大海原に乗り出した。

 

その中に「恒信社」があった。南進論の旗振り役、榎本武揚の肝煎りで、仙台藩の儒者だった横尾東作が起こした。その支配人が青柳徳四郎。昭和45年、徳四郎の詳細な航海日記が白河市白坂の旧家の土蔵から見つかった。見つけたのはひ孫の幸治さん。「今にも崩れそうな蔵…押入れの奥の方に道中行李があり…日記、手紙、メモ帳が出てきた…読んでいるうちに徳四郎が後世に残してくれといっているようで…」。昭和56年に刊行された『青柳徳四郎交易日記』は、草創期の南洋貿易を知る最高級の資料になった。

徳四郎は1860年、奥州街道の宿場町・白坂で商業を営む家に生まれた。繭の売買で東京、横浜に行くようになり、英語を学ぶ。白河のハリストス正教会で洗礼を受ける。多くの宿場町がそうであったように、国道ができ鉄道が開通すると、白坂宿は往時の勢いを失った。

明治19年、単身上京し恒信社に入る。小さな70tの帆船「懐遠丸」で南洋貿易が始まった。日記によれば、23年12月末、横浜を出航。31日小笠原で薪水等を補給。そこからカロリン諸島に向かう。

《24年1月13日、サイパン島に投錨。学校あり…耶蘇教会堂あり。西洋料理頗る美味しい。此島の物資は非常に高価…商業上有益ではない》とする一方《植民の一地としては有益だろうか》と記す。

 

《翌14日、グアム島アプラ港に寄航…西班牙国汽船一艘入港…マニラより来たれり》。当時グアムはスペインの統治下にあった。後の報告書では「人口は約一万を有する大島なり…産出物はコプラ(椰子の実から採れる石鹼等の原料)、珈琲、カカオなど」。だが、すでに西洋系商人がおり、取引は不調に終わった。

徳四郎らは果敢にトラック、パラオなどを回る。マッチやランプ、綿、巻煙草、笠などを売る。買ったのは真珠貝、鼈甲、海参、椰子の実など。《2月5日には宣教師を介して、乗組員2人の常駐、同島物産の一手販売等を現地酋長と合意した》。日本に戻ったのは24年8月半ば。

詳細な意見書を会社に提出し《9月23日早朝、上野を発ち豊原で下車。20人ほどの人たちに迎えられた。祖母、母、妻子の喜顔に無量の満悦を覚える。25日観音寺で70人ほどの祝宴が開かれた》。徳四郎は若くして故郷に錦を飾った。

24年11月、マリアナからパラオへ向かう。ヤップ島から妻への手紙には《此所は年中冬というものはなく…実に極楽である。帰国は3月末か4月始め…》。だがそれは叶わなかった。25年2月3日、パラオ停泊中のマニラ船に向かう途中、台風でボートが転覆し溺死。遺品には膨大な歴史地理などの専門書があった。徳四郎は南洋貿易の道を拓いた英傑だった。

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