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市長の手控え帖 No.192「松平定信のロシア外交」

市長の手控え帳

日本の近代史は、ペリーの浦賀来航に始まると考えがちだ。だが近代史の扉を叩いたのは「北の黒船」ロシア艦隊だった。ペリーの半世紀前にロシアは使節を派遣している。16~17C、日本はスペイン・ポルトガル等、南方からの国しか視野に入っていなかった。だが、その間ロシアがどんどん勢力を伸ばした。

特にピョートル大帝の時代、西欧文明を貪欲に取り入れ大躍進した。シベリア経営に意欲を燃やし、驚異的な速さでカムチャツカ半島を征服。1728年にはベーリング海峡に到達した。江戸期、外国への日本人漂流事案は確認できるものだけで339件。その多くがロシアで4人の皇帝が漂流民を引見している。極東への関心の大きさが伺われる。

カムチャツカの南には、敷石のように千島列島が続く。そこでアイヌと遭遇し交易を始める。その先には大きい島がある。蝦夷だ。その南には弓状の島が連なる。日本との接触が始まる。仙台藩の医師工藤平助は『赤蝦夷風説考』を著し、大帝国ロシアが千島まで進出していることを告げ、北方海防の重要性を訴えた。

 

1792年10月。ラクスマン率いるロシア船が根室に来航した。書簡を携え、漂流民大黒屋光太夫らを伴い、日本との通商を求めた。時の老中は松平定信。「礼と法」を基本に対応した。ロシアは世界の強大国で、名分のない戦争はしないと外国の本に書いてある。また、漂流民の送還という正当な理由がある。礼節を持って遇しなければならない。

一方、日本には「国交のない船が沿岸に渡来すれば、逮捕するか打ち払うという国法がある」と拒絶。ラクスマンは漂流民を江戸で引き渡したいと主張。定信は憂慮する。入港されたら江戸の無防備さが露見する。人心を惑わす、として処罰した林子平が『海国兵談』で指摘した海防体制の不備が証明されてしまう。

しかし、入港をやみくもに拒否するだけでは紛争になるかもしれない。これを避けるため、ロシア側に「活路」を開いてやることを考えた。「わが国法では、外交交渉の地は長崎であり、江戸に来ることは認められない。長崎の地で通商交渉を行うのであれば、入港許可証である信牌を与えよう」というものだった。

定信はロシア貿易を覚悟していたと思われる。英邁な為政者は、ロシアが千島や樺太で交易していることを把握していた。「活路」は窮余の一策ではなく、ロシア再訪を見越しての周到な外交だった。

 

問題があった。攘夷論を国法としたことだ。家光の「鎖国令」は日本人の渡航を禁じ、ポルトガル船の来航を禁じたもの。特定の国の排除であり、関係を持つ国を特定するものではなかった。定信は国としての外交政策の基本を定めたが、新しい国との通商の余地は残していた。

だが後の老中が「犯すべからざる法規範」まで高めてしまった。相次ぐ外国船を恐れ、またこれを肯定する論拠が示されたことが背中を押した。1727年、オランダ商館の医師ケンペルが、日本での見聞を『日本誌』として出版。1801年、蘭学者志筑忠雄が日本の対外政策を『鎖国論』と訳した。これ以降、鎖国と呼ばれるようになった。

1804年(文化元年)定信が与えた信牌を持ちレザノフが長崎に現れた。ロシアはラクスマンへの対応から、日本に通商の意志ありと踏んでいた。だが回答は定信の対応とは対照的。「一切拒否」と冷たくつき放された。面子をつぶされたレザノフ一行は、樺太や択捉の日本番所を襲撃した。「文化露寇事件」である。

杉田玄白や司馬江漢ら知識人は、前回貿易を許可するような返事をしておいて、全面拒否したのは信義に悖ると幕府を批判した。この頃まで定信政権が続いていたら、弱肉強食の世界の大勢を見て、ロシアとの交易を始めたのではなかろうか。

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