戊辰戦争と白河
【目次】
戊辰戦争と白河
慶応4年(1868)、戊辰戦争勃発
慶応3年10月、15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行うと、薩摩・長州藩を中心とする勢力は「王政復古」を実行し、天皇のもと政治を行う新政府を樹立しました。
しかし、旧幕府側勢力の巻き返しに危機感を抱いた薩摩・長州藩等は、慶応4年1月3日、京都で戦いを起こし、戊辰戦争が始まりました。
京都で勝利した新政府軍は、朝敵となった慶喜や会津藩主松平容保らの討伐に向かいました。江戸城は4月に開城しますが、東北では会津藩救済を訴える、仙台藩・米沢藩が主導し奥羽・越後等の諸藩で結成された奥羽越列藩同盟との戦争が起こりました。
白河口の戦い
東北の入口白河には慶応2年(1866)以降藩がなく、幕府領となっており、戊辰戦争がはじまった後は幕府領から新政府領になっていました。しかし閏4月20日(新暦6月10日)、白河を防衛の生命線と考えた会津藩が進軍し、次いで奥羽越藩列藩同盟を構成する仙台藩、棚倉藩等も集結し、新政府軍を撃退するなどして戦闘状態に入りました。
新政府軍は5月1日、激戦の末に白河藩を奪還しますが、7月中旬まで約100日間、新政府軍と奥羽越列藩同盟の諸藩が、白河をめぐり激しい争奪戦を繰り広げました。これを「白河口の戦い」と称しています。
およそ100日間にわたる白河口の戦いにおける死傷者数は1,000人以上と言われています。
白河の人々は同盟軍・新政府軍を問わず戦死者を手厚く弔い、市内に多く残る慰霊碑・供養碑には今も香華が手向けられています。
主な戦闘の進軍図
5 月1 日の戦闘(新政府軍の進軍図)
新政府軍は同盟軍側が陣取る稲荷山、立石山、雷神山に向けて、南方の白坂より三方に分かれて進軍しました。
中央隊は小丸山を占領して正面の稲荷山方面へ砲撃を行うとともに、多くの隊旗を立て、あたかも新政府軍の主力と見せかけて、同盟軍の勢力を稲荷山に集中させました。右翼隊、左翼隊は、同盟軍が手薄になったところに攻め入り、まず雷神山を、次いで立石山を占領しました。これにより新政府軍は城下に進軍し、正午過ぎには小峰城本丸に錦旗を立て、小峰城に入りました。

※れきしら上級編より抜粋
5 月26 日の戦闘(同盟軍による第1次白河奪還攻撃計画)
5月26日、初めて同盟軍による計画的な白河奪還攻撃が行われました。
小峰城へ向けて、八方面(奥羽街道方面、金勝寺山方面、米村口、原方面、棚倉口、石川口、桜岡方面、大和田方面)から攻撃を仕掛け、さらに白坂も攻撃しました。しかし、当日は雨天の上、攻撃開始時刻も統一されていなかったため、思うように戦略が進まず、失敗に終わりました。同盟軍はその後もくり返し白河奪還のために攻撃を仕掛けていますが、白河を奪い返すことはできませんでした。

※れきしら上級編より抜粋
白河の戊辰戦争ゆかりの場所・人
激戦地・稲荷山(稲荷山公園)
稲荷山は城下南側に位置し、江戸方面から伸びる奥州街道が城下町へ入る地点にあたるため、白河口の戦いにおいて会津藩と奥羽列藩同盟が最も重要視した陣地でした。戦いの際には会津藩兵らが守りを固めていましたが、薩摩藩などの新政府軍に立石山方面と桜山方面を破られると一気に劣勢となり陥落しました。稲荷山に応援に向かった白河口の総監督・横山主悦(会津藩若年寄)は稲荷山の裏で戦死しています。
現在、稲荷山頂上付近は公園となり、白河口総督であった西郷頼母(会津藩家老・大河ドラマ「八重の桜」では西田敏行さんが演じました)の歌碑や、すぐ下には両軍約1000名の戦死者の名が記された「戊辰之碑」、麓には戦死者の墓(戦死墓)と銷魂碑、その向かい側には長州藩と大垣藩の戦死者の墓があります。
また、大河ドラマ「八重の桜」で有名になった新島八重は、明治15年(1882)、夫の襄らとともに会津に帰郷する途中、稲荷山を訪れています。
襄が徳富蘇峰に宛てた手紙の中に「此地、維新之際、東西軍之大ニ激戦セシ所ナリ。町之入口ニ、東西軍戦死ノ士ノ墓アリ。」と往時をしのぶ記述が見られます。

【稲荷山公園】

【西郷頼母の歌碑】
旧脇本陣「柳屋」跡
江戸時代、城下の本町には約50軒の旅籠が軒を連ね、大名や幕府の役人が宿泊する本陣、脇本陣が置かれていました。旅籠町として栄えた町の面影を今に伝えるのが旧脇本陣「柳屋」跡です。
幕末の戊辰戦争の際には、新選組・山口二郎(斎藤一)隊長をはじめ隊士約100人がこの柳屋に宿泊しました。また、現在残る蔵座敷は文化元年(1804)の建築で、明治14年(1881)、明治天皇が東北・北海道を巡幸した際に、ここを休憩所(往路)・宿泊所(復路)として利用しました。内部には、違い棚、床の間、付書院などを備えた書院造の座敷があり、庭には明治天皇が使用したと伝わるつるべ井戸も残されています。
蔵座敷の建物は平成26年(2014)に市へ寄贈されましたが、老朽化や東日本大震災の影響により損傷が見られたため、平成27年8月から平成30年3月にかけて修復工事が行われました。

【外観】 【内観】
詳しくは市HP「旧脇本陣柳屋旅館 蔵座敷」をご覧ください。
白河ゆかりの新選組隊士
- 山口二郎(斎藤一)
戊辰戦争白河口での戦いでは、土方歳三に代わって隊長を務め、隊員130人を率いて小峰城に入城。閏4月25日の戦いでは白河へ進軍してくる新政府軍の侵攻を撃退しました。
- 沖田総司
江戸詰めの藩士沖田勝次郎の子として白河藩江戸屋敷で生まれ、その後新選組に入隊。病気により戦線を離脱したため、白河を訪れることはありませんでした。
「白河踊り」がつなぐ交流
白河市と山口県萩市との交流
白河踊りという踊りが、かつて長州藩が治めていた山口県内の各地で踊られていることを知っていますか?
山口県には「白河」という地名がないにもかかわらず、なぜ白河踊りという踊りがあるのでしょうか。その答えは戊辰戦争に参戦し、白河まではるばるやってきた長州藩兵たちにあります。
白河踊りの伝来
戊辰戦争時、白河の領民が戦死者を弔い、盆踊りで死者の霊を慰めていたところに、長州から参戦した諸隊兵士も盆踊りの輪に入って、戦友の霊を慰めたと伝えられています。戦いの後、故郷に戻った諸隊兵士にとって、白河踊りを踊ることが戦友への慰霊であったことから、そのような思いが各地に広まったのではないかと考えられています。
白河市と萩市は、白河踊りを通して、これまで様々な交流を重ねてきました。戊辰戦争140年を迎えた平成20年には、白河市長と市民団体の方々が萩市に招かれ、一緒に白河踊りを踊りました。
また、平成26年には、萩市長をはじめ40名の萩市民の方々が白河市を訪れて、市内の慰霊碑などをめぐり、しらかわ盆踊り大会にも参加しました。

【白河市と萩市の交流の様子】
過去の戊辰戦争と白河をめぐる取り組み
戊辰戦争150周年記念事業(平成30年(2018))
平成30年に戊辰戦争勃発から150年の節目を迎えるにあたり、白河市では歴史の継承と地域文化の振興を目指して「戊辰戦争150周年記念記念事業」を実施しました。本事業では、白河が戊辰戦争における重要な戦場の一つとなった歴史的背景を踏まえ、先人の歩みや当時の歴史を広く市民および来訪者に伝えるため、合同慰霊祭や特別講演、白河戊辰ラーメン合戦など多様な取り組みを行い、150周年を記念した陣羽織、シンボルマークを作成しました。
シンボルマークについて
- テーマフレーズ
「甦る「仁」のこころ-白河戊辰戦争150年-」「仁」とは孔子が唱えた道徳概念で、礼にもとづく自己抑制と他者への思いやり、また愛情を他に及ぼすこと、いつくしみ、博愛などを示します。まさしく白河口の戦いによる戦死者を敵味方の分け隔てなく、今も手厚く弔っている姿は、「仁」のこころといえます。私たちはその「仁」の心を後世に伝えるため、テーマフレーズとしています。
- ロゴマーク
戊辰戦争でも着用されていた陣羽織に、慰霊の花の彼岸花(ひがんばな)と「仁」の文字をあしらっています。

【150周年記念事業ロゴマーク】
陣羽織について
白河市議会では「仁のこころ」を発信するため、毎年3月定例会では陣羽織を着用しています。
詳しくは戊辰戦争150周年記念事業特設ページをご覧ください。
※記念品の販売は終了しています。
「福島の戊辰戦争を歩く」パンフレットを作成しました!
二本松市と会津若松市とともに実行員会を設立し、パンフレット「福島の戊辰戦争を歩くー奥羽越列藩同盟の最前線 白河小峰城・二本松城・会津若松城ー」を作成しました。三市のお城をはじめとした戊辰戦争関連史跡を1泊2日、2泊3日で巡るモデルルートや、史跡紹介、お土産・グルメ情報を掲載しております。歴史を感じながら各地を巡る際のガイドとして、ぜひご活用ください。
パンフレットは各城などで配布しています。三城を巡りながら、戊辰戦争の歴史に触れる旅を楽しんでみてはいかがでしょうか。

※白河市では「二ノ丸茶屋」で限定配布中です。
関連ファイルダウンロード
- 福島の戊辰戦争を歩く-奥羽越列藩同盟の最前線 白河小峰城・二本松城・会津若松城-PDF形式/14.46MB
- 白河戊辰戦争パンフレット(150年記念事業)PDF形式/5.92MB
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問い合わせ先
このページに関するお問い合わせは観光課です。
本庁舎2階 〒961-8602 福島県白河市八幡小路7-1
電話番号:0248-28-5526 ファックス番号:0248-24-1844
メールでのお問い合わせはこちら- 2026年2月3日
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