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市長の手控え帖 No.188「煙と消えた国債」

市長の手控え帳

私の曽祖母はミネという。明治16年に生まれ、一人娘で養子を迎えた。50才を過ぎた頃、母屋の隣に隠居し97才まで過ごした。私は12才から数年間、2階の部屋に寝泊まりした。"お茶が入ったぞ"囲炉裏の自在鉤に掛けられた鉄瓶から湯気が出ている。炭火で焼かれた味噌お握りの香ばしい匂いがする。お茶にほかほかのお握りをほおばる。ミネさんは煙管でゆったりタバコを吸っている。

問わず語りが始まる。あの爺さんは日露戦争に行き、長いあごヒゲの爺さんは朝鮮で憲兵をしていた。あの家族は満州から命からがら戻り、この家族は疎開してきた。半分ほども分からなかったが、どの言葉も胸に刻まれた。ミネさんとの囲炉裏は学び舎だった。心に残る言葉があった。「コクサイ」これを口にする時の顔が曇って見えたからかもしれない。

ミネさんは戦争中、地域の国防婦人部長をしていた。割烹着に白タスキで出征兵士を見送った。国債の購入、貯蓄の励行、物資の節約を呼びかけた。国は「国債は勝利の源」と販売に躍起。ミネさんは立場上かなりの額の国債を買った。

 

戦争には途方もない金がかかり、その7割を国債で賄った。国債に懸念の声もあった。国は「国債は国民全体の借金だが、国民がその貸し手でもある。国が利子を払っても、その分が国外に出ることはなく、国民の懐に入るから心配ない」と言う。しかし、敗戦直後の債務残高は、国民総生産(GDP)の2倍に昇った。

すさまじいインフレが日本を襲った。生産施設が破壊される一方、外地からの帰還者がどっと増える。需要が供給を上回り、小売価格もうなぎ昇り。1948年には10年前の170倍に跳ね上がる。決定的だったのが財政の悪化。国債の殆どは日本銀行が購入した。日銀は代金を捻出するのに大量の紙幣を供給したが、増えるほどに円の価値は急落する。

政府は貨幣の流通量を減らす。まず旧紙幣の流通を停止し、新紙幣を発行する。旧円を全て預金口座に入れ、引き出す時に新円に切り替える。但し引き出せる金額を一定額に制限した。預金封鎖だ。

次に現預金、不動産などの資産に、25~90%の率で課税した。時の大蔵大臣は渋沢敬三。「ニコニコしながら没落していけばいい」と、5千坪の豪邸を財産税の代わりに物納。自らは片隅の陋屋に移った。だがインフレは収まらず、人々の預貯金は無価値になった。ミネさんの老後の貯えもタバコの煙のように消えた。

 

虎の子を紙屑にされた国民の怒りが、赤字国債の発行を「原則」禁止する法律を生んだ。だがバブル崩壊以降、規律が崩れた。1991年の債務残高はGDPの2分の1。しかし今や2.5倍の1300兆円に膨らみ、戦争末期の率をも超えている。特に憂えるのは、赤字国債の発行に何のためらいもないことだ。

戦後初めて赤字国債を発行したのは1975年。大蔵大臣は大平正芳。元大蔵官僚で、財政の苦しみを肌身で知っていた。「借金漬けの国家に未来はない」との信念があった。だが第一次石油ショックで税収が落ちこむ。どうしても歳入が足りず、国債に頼らざるを得ない。

大平は「万死に値する!一度これに頼ると雪ダルマ方式に膨らみ、そのツケは将来世代が払うようになる」と自分を責めた。まるで現状を見通しているかのようだ。首相になった大平は、安定財源を確保しようと一般消費税の導入を訴えた。だが国民の反発は強く撤回を余儀なくされた。党内の造反者が不信任決議に賛成。総選挙のさなか心労で亡くなる。

どの内閣も財政健全化を掲げるが、税制や支出の抜本的議論は行われていない。一方で赤字国債を出し続けている。この先、ハイパーインフレが起きないと誰が言い切れるだろうか。私たちは内なる敵と闘う気概を持たなければならない。

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