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小峰城跡【こみねじょうあと】

※三重櫓の開館時間等については、こちらをご覧ください。

小峰城跡(南から)

小峰城跡(南から)

小峰城跡2018

小峰城跡三重櫓・前御門(南東から)

指定種別 国指定 史跡
指定年月日

平成22年8月5日

(追加指定)

平成24年9月19日
平成26年3月18日

令和3年3月26日

所在地 白河市郭内
所有者・管理者 白河市ほか

JR白河駅の北方約500mに本丸が位置する。城郭は阿武隈川の南側に東西に延びる独立丘陵と、丘陵の南方に広がる段丘上を利用して築城されている。本丸の標高は370m、本丸と二之丸との比高は約15mである。

小峰城の成立は、「白河風土記」によれば、興国~正平年間(1340~1369)の頃、白河庄を治めていた結城宗広(ゆうきむねひろ)の嫡男親朝(ちかとも)(別家小峰家を興す)が築いたことに始まるとされる。

結城氏の本拠は、小峰城より東へ約3キロメートルの所に位置する白川城であったが、結城氏一族の内紛のあった永正年間(1504~1520)以降には、本拠が小峰城に移ったと推定されている。

天正18年(1590)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の小田原攻めに参陣しなかった結城氏は、秀吉の奥羽仕置で改易となり、以後37年間にわたり小峰城は会津の支城となる。蒲生氏郷(がもううじさと)、上杉景勝(うえすぎかげかつ)、蒲生秀行(がもうひでゆき)と領主が変わるなか、白河には城代が置かれた。蒲生秀行時代と考えられる慶長年間の城絵図を見ると、城郭や城下の整備も行われ、梯郭式平山城としての縄張りや城下の原型はできあがっていた。

寛永4年(1627)に初代白河藩主となった丹羽長重(にわながしげ)は、城郭の大改修を行った。およそ4年の歳月をかけて寛永9年(1632)に完成した姿は、本丸・二之丸を総石垣で固め、三之丸においても門周辺部には石垣積みとした梯郭式の平山城で、随所に石垣を多用した特徴がある。

城郭の全体形は、やや不整な五角形である。現在、外堀より内側の約540,000平方メートルが埋蔵文化財包蔵地、本丸・二之丸を中心とした約120,000平方メートルが史跡となっている。

丹羽家以降は、榊原、本多、松平(奥平)、松平(結城)、松平(久松)、阿部家など徳川親藩・譜代大名(7家21代)の居城となり、「奥州の抑え」としての役割を担ったが、慶応3年(1867)の阿部家の棚倉移封後は幕領となり、二本松藩(丹羽家)が管理した。そして、慶応4年(1868)の戊辰戦争白河口の戦いで焼失落城した。

明治以降、城郭はその多くが民間へ払い下げられた。本丸を中心とした範囲は、陸軍省の所管となり、のち明治26年(1893)に白河町に払い下げられた。

二之丸・三之丸の城郭遺構については、その多くが埋められ、農地や官公庁舎、住宅地として利用された。三之丸には、明治20年(1887)に東北本線が敷設され駅が設置されるなど、近代白河のまちへと変化を遂げる。

昭和50年代後半から、本丸・二之丸を中心に都市公園としての整備が開始され、平成3年(1991)には三重櫓、平成6年(1994)には前御門が、発掘調査の結果や文化5年(1808)成立の「白河城御櫓絵図」を基に木造で復元整備され、往時の姿をしのばせている。

地図を見る:小峰城跡

※別ウィンドウで地図が表示されます。

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このページに関するお問い合わせは文化財課 文化財保護係です。

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