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白河関跡【しらかわのせきあと】

古関蹟碑

古関蹟碑

白河関跡全景(南上空から)

白河関跡全景(南上空から)

指定種別 国指定 史跡
指定年月日 昭和41年9月12日
所在地 白河市旗宿関ノ森ほか
所有者 白河神社・白河市ほか

旗宿集落の南に位置する標高410mほどの独立丘陵全体が、史跡指定地である。栃木県境まで約3キロメートルの位置にあるこの地は、古くより関の森と呼ばれ、丘陵頂上部には白河神社(明治2年(1869)に改称)が存在している。

白河関の名は、文献では延暦18年(799)12月10日の太政官符(「河海抄(かかいしょう)」)に「白河・菊多剗守(きくたせきもり)六十人」と記されており、少なくとも8世紀末には存在していたものと考えられる。また、承和2年(835)12月3日の太政官符(「類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)」)に、「白河・菊多両剗」と見え、俘囚(ふしゅう)(律令国家に服属した蝦夷(えみし))の出入りと商人による官納物の買収を防ぐため、通行取締を長門国並みに行うよう命じており、白河関が人々や物資の出入りを監視する役割を担っていたことをうかがい知ることができる。

関の存続年代については、発掘調査の成果や文献資料から奈良~平安時代(8~9世紀頃)と考えられるが、10世紀の律令国家の衰退とともに、官関の機能は失われ場所も忘れられていったと推定されている。

機能の衰退・廃関前後に、能因(のういん)の和歌「都をば 霞とともに立ちしかど 秋風ぞふく白河の関」(「後拾遺集」)などが詠まれ、以降白河関は都人の憧憬の地へと変化し、多くの歌人・俳人によって「歌枕」として文学の世界にその名が伝えられた。

江戸時代に入り、白河藩主松平定信は場所が不明となっていた白河関跡の調査を行い、絵画・記録や伝承などから考証を行い、寛政12年(1800)に現在地を白河関跡と断定し、「古関蹟碑」を建立した。

昭和34年(1959)から5箇年にわたって発掘調査が実施された。その結果、空堀、土塁、柵列、門跡、竪穴住居跡、鍛冶工房跡、掘立柱建物跡などが確認され、縄文時代および奈良・平安時代、中世にわたる複合遺跡の存在が明らかとなった。

この調査により確認された遺構・遺物、遺跡周辺の地理的特徴、文献や絵画資料等の検討を総合して、現在地が白河関跡の条件にかなう点が多いことから、昭和41年(1966)に国史跡として指定された。

 

地図を見る:白河関跡

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