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市長の手控え帖 No.127「若冲が慕った清風の人」

市長の手控え帳

 

先々月、澤田瞳子さんの講演会があった。演題は『白河と伊藤若冲をつなぐもの』。澤田さんは、最年少で中山義秀文学賞に輝き、その後も幾多の文学賞を得ている実力派。若冲を描いた作では親鸞賞も受けている。若冲は、谷文晁を通して、松平定信と接点があったかも知れないとのくだりでは心踊った。
若冲は、京都錦市場の裕福な青物問屋の長男。生家が商う野菜、魚、飼っていた鶏など、身の回りのものをつぶさに観察し、生き生きと描く。最高級の顔料を用いた鮮烈な極彩色。人間業とは思えないリアルさと細密さ。その卓越した描写の着色画に息を呑む。対照的に、ユーモラスで親しみやすい水墨画もある。
学問嫌い、人づきあいが苦手、家業にも身が入らない。絵一筋の"オタク的"な人と見られてきたが、そうでもないらしい。同業者の画策により、奉行所から錦市場の営業停止を命ぜられる。理不尽と自ら先頭に立ち、冷静かつ粘り強く交渉。的を射た政治的判断により、事なきを得た。生涯、ひたすら絵と遊び、戯れた人ではあるが、別の面白い顔もあるようだ。
18世紀中頃、京都では大きな文化の花が開いた。若冲、与謝蕪村、池大雅、円山応挙、上田秋成ら一流の文人がその才能を存分に発揮した。互いに競い、学び、風雅に遊んだ。政治の中心江戸は、身分秩序が厳正で息苦しい。
京都は江戸から遠い。また、新しい文化を取り入れる気風がある。明から清へ移った中国から、漢詩を中心に過激な思想が入る。「狂」や「畸(奇)」。人と違っていること、先鋭さを良しとする考え方がはやる。自由で創造的な雰囲気の中心に、風変わりな人がいた。
売茶翁。60歳の頃、東山、鴨川のほとりに茶店「通仙亭」を構えた。その当時珍しい煎茶を売り、日々の糧を得た。桜の仁和寺、涼風の下鴨神社、紅葉の東福寺。茶道具を担ぎ、"清風"の旗をたてる。旗には「お代は200万円でも20円でもよい。ただでもよいが、ただ以上はまけられない」との洒脱な文句。後退した額、髪は伸ばし放題、中国風のよごれた服。奇異な目で見られたことだろう。
次第に人が寄ってくる。身分を問わない。生臭い話、野暮な話はしない。四方山話をのどかに語る。無欲無心に。一流は一流を知る。いつしか風狂人の店に、多くの文化人が集まる。「売茶翁に一服接待されなければ、一流の風流人でない」とまで言われるようになった。
売茶翁は黄檗宗の僧。肥前鍋島藩ゆかりの寺で得度。月海元昭となる。住職に従い本山の宇治萬福寺で修行。さらに日本各地の寺で学識を深める。師は、弟子の非凡さと、常識の枠を超えた風狂さを見抜いていた。50歳の折、尊敬する師が逝去すると、孝を果たしたように寺を去る。真の自由を求め、漂泊の旅に出る。
僧の商いは、戒律で禁じられていた。だが、売茶翁は意に介しない。生活の資を自ら稼ぎ、仏の教えを説いた。世俗の中で人と交わり、「一杯の茶で世俗を超越した世界へ、清風の流れるような境地へ」誘った。地位と身分を捨て、「無所有」になる姿に若き文人は憧れたのだろう。
藩の掟で佐賀に帰った後、僧籍を離れる。還俗後は「高遊外」と名乗り、再び京に戻る。若冲や大雅と交流があったのは、70歳を過ぎたこの頃。動植物を丹念に描いた若冲の大作を、「色遣いも筆さばきも神技」と絶賛。大雅を「俗にいて俗に染まらぬ」精神を共有する人物として愛情を注いだ。売茶翁を尊敬する二人。翁の命が尽きる前に、翁の詩句を一冊の本にまとめて贈った。肖像画は若冲、題字は大雅、という豪華版。
眺めのいい丘の上。煎茶を喫しながら、夢を語る若冲、大雅、蕪村たち。それを慈しむように見る売茶翁。さながら清々しい一幅の絵を観るようだ。

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